大物なのか、鈍感すぎるのか。憎い親の仇の面前で、恥も外聞もなく蹴鞠(けまり)の妙技を披露した戦国武将がいる。桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた大大名・今川義元の子、氏真である。
氏真は父亡き後、名門・今川氏12代の当主になったが、武将としての力量に欠けており没落。流転の末、最終的には徳川家康に捨て扶持500石を与えられて人生を終えた人間だ。
実は、氏真は鎌倉時代から室町時代前期に完成された蹴鞠の名人だった。蹴鞠とは鹿革と馬革を縫い合わせた鞠を蹴り続け、その回数を競う芸道で、今でいうサッカーのリフティング大会のようなものだ。蹴鞠の飛鳥井宗家の飛鳥井雅綱などに技を伝授された氏真には冒頭のようなエピソードがあった。
信長の生涯をつづった「信長公記」によると、天正三年(1575年)のことだ。氏真は旧知の公家を訪問するため、京都に滞在していた。そのときに、京都・相国寺で信長に拝謁することになった。戦国の世のならいとはいえ、憎い親の仇で、自らの没落の原因を作った相手だ。だが、ギクシャクすることなく会話が弾み、氏真が得意とする蹴鞠を披露することになったという。
事実、拝謁の何日後かに、相国寺で信長以下大勢の観客の前で蹴鞠の妙技を披露したと伝わっている。氏真の技に、気に入らないことがあれば即座に癇癪を起こす信長もうなったらしい。
敵の面前でミスなく自らの技をこなすとは、そのハートの強さは並大抵ではないだろう。
氏真は慶長十九年(1614年)、77歳でこの世を去った。写真のように墓所は「観泉寺」にあるが、この付近の住所は現在の東京都杉並区今川だ。この今川の由来は今川家にちなんでいるという。遠江、三河の3カ国で70万石といわれる領地を持ち、一時は天下をも狙っていた今川義元の後継ぎ・氏真が、武将としてではなく蹴鞠の名人として歴史に名を残すことになるとは、なんとも皮肉な話である。
(道嶋慶)