本能寺の変は、天正10年(1582年)6月2日、戦国時代の英雄・織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって倒されたもの…ということは誰でも知っている。パワハラが主な要因だったという話もあるが、事実はいまだに解明されていない。
その中で、ある美女の死が本能寺の変を招いた、という説がある。信長の側室で、光秀の妹(義妹とも)である御妻木殿(おつまきどの)だ。
御妻木殿は、興福寺多門院の院主・長実房俊也の書いた「多門院日記」などにも登場する人物。天正10年(1581年)の8月7日か8日に死亡したとされるが、生年は伝わっていない。
彼女が信長の側室になったのは、永禄8年頃だ。信長の一族は戦国一の美女・お市の方や淀君を輩出したように、美男美女の家系。だが、明智一族も負けず劣らずの美男美女が多く出現した家柄で、御妻木殿もかなりの美形だったらしい。しかも、頭が切れた。どうも信長が一目ぼれし、側室としたらしい。
この時点から、信長と光秀は義理の兄弟となった。光秀が織田家内で異例の速さで出世街道を駆け上がったのは、その才能がゆえと言われている。だが、親族になったことも大きく影響しているのは間違いない。
御妻木殿は、信長と光秀の間を取り持つ役目も担っていた。天正5年(1577年)、光秀は興福寺と東大寺の争いの裁判を任された。この時、興福寺の立場を尊重する信長の意向を光秀に伝えたのは、御妻木殿だった。今で言う、有能な社長秘書といったところか。
だが、夫・信長と兄・光秀の調整役だった御妻木殿の死で、状況は一変する。死亡の原因は伝わっていないが、彼女の死で光秀の政治的基盤が揺らいだのは間違いない。
「多門院日記」には、妹の死で光秀が「無比類」(ひるいなき)力を落とした、との記述も残っており、さらなる出世を目指す光秀には大きな痛手だった。
本能寺の変が起きたのは、それから10カ月後。その間、信長からは数々のパワハラがあっただろう。それでも御妻木殿が間に入っていれば、丸く収まったことも多かったはずだ。ひとりの女性の死が、歴史を大きく動かしたことになる。
(道嶋慶)