古代中国・殷の紂王が考案した残忍な刑のひとつ、蛇を使った処刑法が日本にもある。
戦国時代、キリシタン弾圧のために、手足を縛ったキリシタンを大量の蛇と桶に入れて蓋をした後に、外から棒で叩いたりして蛇を刺激する「蛇責め」がそれだ。
蛇には穴に入り込むという習性がある。閉じ込められた蛇は中にいる人間の口、秘所や菊門にまで潜り込んでいくという。しかもウロコがストッパーとなり、後戻りはできない。息ができなくなった蛇は外に出ようとして内臓に噛み付く。まさに残虐非道な処刑法だ。
キリシタン弾圧以外にこの「蛇責め」を行った大名が、前田利常だ。加賀藩祖・前田利家の四男。子供のいなかった長兄・利長の養子になり、加賀藩の藩主となった人物だ。
この利常の正妻は、徳川将軍・秀忠の二女、球姫だった。慶長六年(1601年)、球姫が江戸から前田家に嫁いだのは、わずか3歳の時。政略結婚だったが3男5女をもうけ、仲むつまじく暮らしていた。
だが、外様筆頭の前田家に幕府情報が筒抜けになることを恐れた珠姫の乳母が、暴挙に出る。江戸から随行してきたこの乳母は、利常には慇懃無礼な態度をとり続けており、元々、折り合いも悪かった。
元和八年(1622年)、五女・夏姫の出産後に調子を崩したという理由を付けて、球姫を隔離した。事情を知らない珠姫は寵愛が薄れたからと誤解し、不安と寂しさから衰弱して危篤状態に陥った。
臨終の間際に駆けつけた利常に「こうなったのは乳母のせい」との遺言を残したため、乳母の悪事が露見。球姫、わずか24歳だった。
愛妻家・利常の怒りが爆発したことは、言うまでもない。怒りにまかせて珠姫の乳母を壺に入れ、蛇責めで処刑してしまったのだ。
この話には後日談がある。利常の子孫が厠(トイレ)で「かわ姥(うば)」と呼ばれる怨霊を必ず見たという。のちに子孫が供養のため、埋められた墓所を発掘して蓋を開けてみると、死後36年後ながら、腐敗のない遺骸だったと伝わっている。
(道嶋慶)