ある意味、死刑よりも重い、宮刑と呼ばれる刑罰がある。子孫を残すことが不可能になるからだ。イチモツを去勢するもので、古代中国では治療前の傷口から腐敗臭を発することから、腐刑などと呼ばれている。
日本で実施された例はほとんどないが、戦国時代、家来に謀反を起こされた上、男性自身をちょん切られたとされる人物がいる。戦国大名大内義隆の子・歓寿丸だ。
義隆は周防国の守護大名で、大内氏の第16代当主だったが、かつて寵童として重用していた家来の陶晴賢(すえ・はるたか)と対立。天文二十年(1551年)、長門大寧寺の変で自害に追い込まれた。その際、義隆の嫡男の義尊も殺害されたという。
戦国時代の習いとしては、一族皆殺しが基本だ。しかも晴賢はかつて厚狭弾正という人物が無罪を訴えていた時、笑みを浮かべながら火あぶりにしたという冷酷な人間だった。
落ち延びようとした大内一族を、徹底的に探し出す。その中に義隆の末子・歓寿丸がいた。当時5歳では、いつまでも逃げ切れるものではない。追っ手がかかり、翌年、今の山口県の俵山温泉近くに潜伏しているところを発見されてしまったのだ。
この時、歓寿丸は正体を隠すため、女装していた。これがある意味、不運だった。通常なら単なる処刑で終わったかもしれない。だが晴賢は、男児である証拠を求めた。そのため、歓寿丸はイチモツを切り取られ、殺害されてしまったという。
あまりにむごい仕打ちを哀れに思った村人が、観音堂を建てた。これが現在、子孫繁栄、勢力増強などに御利益がある「麻羅観音(まらかんのん)」だという。境内には林立する男のシンボルがあるが、これはイチモツを失った歓寿丸に対する供養のためといわれている。願い事を唱えながらその先端部分を撫でると、より御利益が増すとされる。
西国無双の侍大将と呼ばれた晴賢には、バチが当たったのかもしれない。天文二十四年(1555年)、晴賢は嚴島の戦いで対立する毛利軍と村上水軍に敗れて自害。弘治三年(1557年)には長男・鶴寿丸も毛利元就の防長経略によって自害し、晴賢の直系子孫は途絶えている。
(道嶋慶)