お笑い界の名バイプレーヤーと言われた笑福亭笑瓶さんが、急性大動脈解離のため2月22日、66歳の若さで亡くなった。報道陣に囲まれ「師匠より先に逝くっておかしいじゃないですか」と悔しそうに語る師匠・笑福亭鶴瓶の言葉を聞き、ふとどこかで同じコメントを聞いたことを思い出した。
「師匠より先に死ぬ弟子があるかい」に続けて「あんた、最後まで警察の世話になったな、と言いました」。そう、あれは「やっさん」こと、横山やすしが死去した際、大阪・摂津警察署で遺体と対面した師匠の横山ノック(当時大阪府知事)が語った言葉だったと記憶している。
やっさんの妻・啓子夫人が自宅で倒れている夫を発見したのは、96年1月21日午後8時前のこと。救急車到着時にはすでに心臓が停止しており、手の施しようがなかった。死因はアルコール性肝硬変だった。
当時、芸能マスコミをはじめ世間が抱く、やっさんのイメージは「酒」「女」「博打」にまみれた破天荒な昭和の芸人。実際、やっさんは70年のタクシー運転手暴力事件を皮切りに、77年にはまたもタクシー運転手に「駕籠かき雲助やないか」と吐き捨て侮辱罪で告訴されるなど、数回の謹慎処分を受けた。その後、89年、酒気帯び運転で人身事故を起こし、結果、吉本興業を解雇されることになる。
ところが、そんなやっさんが92年8月5日深夜、何者かに暴行を受け、脳挫傷を負う大怪我で摂津市内の病院に緊急入院した。会見した主治医によれば「病院に担ぎ込まれたとき、横山さんと判別するのがむずかしいほど」の重傷で、9月上旬には血液中に細菌が入り、42度の高熱を出し、一時は生死をさまよう状態に。
とはいえ、憎まれっ子世にはばかるとはよく言ったもので、そんなやっさんが98日ぶりに退院するとの一報を受け、筆者も入院先の摂津医誠会病院へ駆けつけた。92年11月12日のことである。
報道陣が待ち構える中、マリンキャップに「レーシングチームYOKOYAMA」と印字されたジャンプスーツ姿で玄関前に現れたやっさん。しかし、医師や看護師らから花束を贈られ「おおきに、おおきに」と感謝を口にするも、その笑顔はかなりぎこちない。報道陣から質問が飛んでも、さすが退院直後とあって、「えっ、あの…」「いや、うん…」と、しゃべりたくても口がうまく回らない様子だ。すると、隣にいた次女の光(当時12歳・後に漫才師としてデビュー)が、横山の口にスッと手を当て、父親をガード。その光景が今でも忘れられない。
だが、結局は後遺症に悩まされたやっさんは、一時は辞めていた酒を飲むようになり、肝硬変が悪化してしまう。以来入退院を繰り返している中での訃報となったのである。
「人間は死んだときにはじめて値打ちがわかるんや」が口癖だったやっさんの葬儀には約2000人が弔問。「たくさんの人に見送られて、ほんとによかったね。あとはゆっくり休んでね」そう語った啓子夫人の言葉に、やっさんの破天荒さの裏に隠された優しさを見た気がした。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。