1983年の結成から今年で40年を迎える「たけし軍団」が、3月8日から12日まで、40周年記念プロジェクト舞台「ウスバカゲロウな男たち」を上演中だ。
舞台に先駆けて、つまみ枝豆、ガダルカナル・タカほかメンバー7人がテレビ出演し、PRを行った。軍団としての客席イベントは約30年ぶりというが、ラッシャー板前が「でも、フライデー事件があって…」とボケをかませば、タカが「いや、あれイベントじゃねぇから」とたしなめるシーンが。思わず、あの事件の記憶が蘇った。
といっても、思い出したのは事件そのものではなく、事件後、足立区の実家前で報道陣の取材を受け「たけしに『お前なんか死んじまえ』と怒鳴りつけました」と毅然とした態度で語った、たけしの母・さきさんの姿である。
さきさんといえば、ドラマ化された「たけしくん、ハイ!」や映画「菊次郎の夏」などで有名になった、明治生まれの女傑。たけし自身、自著「愛でもくらえ」などで「オレくらいマザコンはいない」と告白するほど、お母さん子であったのはよく知られる話だ。
さきさんが静養先の軽井沢の病院で95歳の生涯を終えたのは、99年8月22日午前9時少し前のこと。仕事のため、最期を看取ることができなかったたけしは夜8時過ぎ、遺体が安置された実家に到着し、亡骸と対面。そして2日後の24日、通夜が東京・葛飾区小菅の蓮昌寺でしめやかに執り行われると、たけしが報道陣の前に立った。
「7月10日に最後に会ってさ。気の強い人だからね。口きけなくなっても、ベッドの上でオレのことじっと見ててね。95でしょ。よく生きたと思うよ。(最期は看取れなかったが)そういうことができない商売を選んだんで、ま、勘弁してくれなと」
そう言って唇を噛むたけし。だが女性レポーターから、お母さんの人生は子供たちにかけた95年だったかと聞かれた瞬間、我慢していた思いがこみ上げてきたのだろう。
「すごい親だからね。俺の見ていた母親っていうのは、いつも働いていて、いつも泣いていたから…感謝している」
震える声で答えると、両ひざをガクッと落として号泣したのである。その姿は「世界のキタノ監督」ではなく、あるいは軍団を率いる芸能界の大物でもなく、ただの北野家の甘えん坊な三男の、まさにそれだった。
生前、母を見舞いに行った帰り、姉から「母ちゃんから預かった」と小さな包みを手渡されたというたけし。「もう形見分けか」と不思議に思い、帰りの車内で開けてみると、そこにはたけし名義の郵便預金通帳が入っており、日付は二十数年前から続いていた。その額、1000万円。「花なんかより金持ってこい!」──そんなさきさんの言葉の裏にあった深い愛情に、言葉を失ったという。
「お袋が死んでも、背中に乗っかっているな、っていう気がするんで。頑張っていい仕事しようと思っています」
辛辣な物言いで「不肖の息子」を世界のキタノに育てた母は、気丈な明治女だったのだ。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。