打率5割の8打点1HR、投手としても1勝を挙げる八面六臂の活躍で、WBC1次R東京プールのMVPに選ばれた大谷翔平。その躍動の裏には、過去の「遺恨」を払拭したい並々ならぬ決意があった。二刀流の大爆発が日本代表を救ったストーリーに迫る。
「負けたら終わりなので、プレッシャーはかかると思う。それでも全員でつないで、最終的に1点でも多く取っていればいいという気持ちで勝っていけたら」
3月15日、準々決勝のイタリア戦を前に、大谷翔平は、珍しく強い口調で勝利への渇望を口にした。15分の会見で「勝利」の言葉を実に10回も挙げるほどのこだわり。普段は笑顔を絶やさないスーパースターの心中に去来したものは何か。
「大谷にとって今回のWBCは捲土重来のチャンス。17年のWBCでの忌々しい記憶を払拭したいという覚悟の表れですよ」
そう語るのは、スポーツ紙野球担当デスク。
17年2月1日、第4回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の侍ジャパン・小久保裕紀監督(51)は、集まった報道陣を前に、声を荒らげた。
「調整が少し遅れているのは聞いていたが、今日、突然の発表だった。一方的に会見が開かれ、詳細がわかっていない」
前日の1月31日、日本ハムに所属していた大谷翔平(28)が、前年の日本シリーズで負傷し、その後悪化した右足首のケガを理由に、出場辞退を発表したのだ。
「当時はエースとしての起用が見込まれていたが、キャンプインの段階で全力疾走すらできない状況でした。実は日ハムは同29日の段階で、NPBに『(第1戦の)3月7日には投げさせられない』と通達していたのですが、目玉を失いたくないNPBの思惑も絡んでか、連絡の齟齬で小久保監督にはそれが伝わっていなかった。結果、業を煮やした日ハムが単独で辞退を発表する形になってしまった」(球界関係者)
当然、優勝奪還が至上命題の小久保監督にすれば、投打で計算できる大谷の欠場は容認できない話で、
「表向きは平静を装っていましたが、親しいスタッフの前では完全にブチ切れていたと聞いています」(球界関係者)
大谷を欠いた侍ジャパンは、優勝したアメリカに準決勝で1-2と惜敗。またしても、世界1位の座を逃す。大谷とWBCの「遺恨」は、こうして代表監督との軋轢から始まった──。
その後の17年から20年の4年間は、大谷にとって満身創痍の時期だったと言えるだろう。
17年は開幕早々の肉離れの影響で、出場65試合と低調。成績面でもプロ入り後ワーストタイの3勝に終わり、同オフのエンゼルス移籍を前に、成績不安からプロ入り直後同様「二刀流断念説」が再燃もした。
メジャー1年目の18年は一定の成績を残しながらも、オフに右肘靱帯のトミー・ジョン手術に踏み切る。翌19年はその影響で打者に専念、シーズン終盤には左膝蓋骨の手術も行った。20年もリハビリ調整でメジャー復帰が遅れ、しかも右肘回内屈筋群炎症で8月3日以降は登板なし。打棒も振るわず44試合出場にとどまるなど渡米後最低の成績に終わってしまった。さらに同年は新型コロナウイルスが全世界でパンデミックを巻き起こし、翌21年に開催予定だった第5回WBCの延期も決定。大谷のみならず、日米球界全体にとっても踏んだり蹴ったりの年となってしまった。
だが、ある意味でこの大会延期がケガの功名になったと言えよう。ご存じの通り大谷は、翌年から完全に覚醒。日ハム時代は二刀流を考慮して休み休みの出場だったものが、150試合以上を投打でフル回転しても故障なく完走する肉体までも手に入れていた。21年には満票でア・リーグMVPに選出。名実ともに世界最高の野球選手として、かつて出場を熱望したWBCの舞台に立つことになったのである。
メジャーリーグ事情に詳しいスポーツライター・友成那智氏が言う。
「本来であれば、今季1年契約の大谷は、オフに大型契約を勝ち取るための『コントラクト・イヤー』。出場することで調子を落とすかもしれず、本人は相当悩んだとも聞きますが、恩義のある栗山英樹監督(61)に頭を下げられたら出るしかない。もちろん、出場の条件や球数制限など細かい制約はエンゼルスと話し合っているはずですが、東京プールではMVPも獲り、完全に『大谷のための大会』になったのはさすがの一言ですよ」