令和の今とは違い、芸能マスコミがまだバリバリに元気だった80年代から90年代は、毎日が抜くか抜かれるかの戦国時代。ただ、タレントを抱える芸能プロからすれば、致命的なスキャンダルは命取りとなる。そこで芸能プロがよく使ったのが、週刊誌記者がタレント本人や事務所に直撃取材をかけた瞬間、懇意にしているスポーツ紙記者に情報をリークし、好意的に記事を書いてもらった後、本人が記者会見を開くというパターンだった。
どんな世界にも駆け引きはあるものだ。そして常にゲリラ的な取材をかける「いちげんさん」の週刊誌より、コトあるごとに取材に来てくれる、付き合いが深いスポーツ紙記者との関係が深まることも、自然の摂理といえるだろう。
正直、この時の裏側はわからない。ただ、おそらくは、そんな流れで行われたものだと理解しているのが、1989年6月の沢田亜矢子の「未婚の母」告白記者会見だった。
当時、筆者が所属する週刊誌編集部に、沢田がニューヨークで極秘に女児を出産した、との一報が届いた。会見の1カ月ほど前のことである。しかも、女児は妹の戸籍に入っているという。早速、専従チームが編成され、事実確認作業が始まった。
詳細は伏せるが、情報源は彼女にごく近い関係者。相手と目された男性の名前も、その時点で数名が挙がっていた。そして原稿締め切り当日、材料を揃えて関係各位を総当たり。しかし、本人も事務所も「妹の子供です」と全否定。ただ、デリケートな案件だけに、間違いない確証が取れなければ掲載できないとの判断で、校了ギリギリまで所属事務所と交渉を続けることになった。
ところが、である。校了翌日の6月13日、さるスポーツ紙の一面に「沢田亜矢子 4年前に米国で女児を極秘出産 揺れる母心」なる記事が大々的に掲載された。同日、沢田が弁護士を伴い、記者会見に臨むことになったのである。
ぶっちゃけて言えば、編集部の完敗だった。沢田いわく、1985年8月に米ロサンゼルス郊外の病院で女児を出産。翌月に帰国した後、妹の実子として戸籍に入れる。沢田は言った。
「子供が学校に行くまでには、しかるべき手続きをとって、実子として籍を入れるつもりでした。(未婚で子供を産んだのは)女としての生き方を貫徹したかったからです。自分の判断と責任において、自分自身で判断しました。その責任は自分で取っていきます。相手の男性には何も相談せず、私のエゴで黙って産みました。認知を求めることは考えていません」
相手の男性には、出産の事実もいっさい、伝えていないという。そこから各社による「父親特定作業」が始まったことは言うまでもないが、シンガーソングライター、作曲家として活動する娘「澤田かおり」の名を目にするたび、あの日のことが脳裏をよぎるのだった。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。