盗賊として日本で初めて指名手配されたのは、歌舞伎「白浪五人男」の登場人物・日本駄右衛門のモデル、日本左衛門だ。本名は濱島庄兵衛といい、江戸中期の享保四年(1719年)、尾張藩の七里役の子として生まれた。
七里役は七里(約28キロ)ごとに配置された公用急飛脚のことで、藩の公式文書を運ぶという重要な役割を担っていた。そのため、3人までは斬り捨て御免が許されていた。
この破格の待遇に、勘違いする者が続出。無宿者などを集めて「賭博場」を開き仕切るなど、ヤクザまがいの生活を送るケースも多かったという。
そんな環境にすっかり染まった左衛門は、20歳の時に父から勘当されてしまう。勘当となれば人別(戸籍)から外されるため、無宿者になるしかない。
無宿者となった左衛門は23歳頃から遠州・見附宿(現在の静岡県磐田市見付)に住み着き、盗賊業に手を染め始めた。最大時には200名の子分を従える盗賊団の頭目となり、裕福な商人や大地主から、合計で約2600両を奪い取ったという。
見附宿は天竜川の渡河もある重要な交通路で、幕府の天領、直轄地だったため、延享三年(1746年)、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行・能勢頼一に訴訟。これにより、老中・堀田正亮から火付盗賊改方頭の徳山五兵衛秀栄が一味の捕縛を命じられ、左衛門の指名手配書が全国に配られた。それまでの手配書は親殺し、主殺しの重罪に限られており、盗賊としては日本初となった。
手配書には身長や実年齢だけでなく、見かけの年齢や傷、歯並び、鼻筋、服装に至るまで、事細かく記載されていた。そのため、逃亡先の安芸国宮島で手配書を目にした左衛門は、逃げ切れないと観念し、延享四年(1747年)、京都で京都町奉行・永井丹波守尚方(または大坂町奉行・牧野信貞)に自首したという。
その後、江戸に送られ、市中引き回しの上、獄門となった。首は遠江国見附に晒されたが、近隣の大名は割を食った。領内を荒らされた上、捕縛できなかった遠江・掛川藩主小笠原長恭は、懲罰として奥州棚倉へ転封。相良藩主の本多忠如も「盗賊取り締まり等閑」の罪で、奥州泉藩へ転封されている。なんともありがた迷惑な話だ。
(道嶋慶)