私が岡田を強く意識したのは1986年の早春に遡る。岡田は言い放った。
「長嶋茂雄なんか嫌いや」
長嶋は評論家として安芸キャンプを訪れていた。前年、阪神は日本一を達成。岡田はランディ・バース、掛布雅之と並ぶ超破壊的クリーンアップの一角を占める看板選手だった。時に岡田は29歳、余談ながら私は三つ下の26歳。
長嶋は戦後のプロ野球を牽引し、当時も絶大なる存在感を示している。それにもかかわらず、岡田は臆することなく偉大なるレジェンドをディスってみせた。
「巨人は阪神の敵やん。巨人のOBを好きというのは筋違いやろ。縦縞のユニフォームを着ている以上、オレは絶対に長嶋さんのことを好きと言われへん」
私は岡田の屁理屈に痺れてしまった。それほどV9時代の長嶋は憎たらしかった。幼き日には「長嶋と王貞治がいなければ」と呪詛
したものだ。しかし、巨人を呪わば穴二つ、長嶋どころか王まで阪神戦になるとポカスカ打ちまくった。
長嶋を永遠のライバルと呼んだ村山実なら「嫌い」とは言わぬはず。掛布は憧憬で瞳をキラキラさせただろう。だが、岡田は「長嶋さんの実績や人間性は認めても〝巨人の顔〟としての長嶋はアカン。別次元の話や」と続けた。阪神の一員たる心意気、アンチ巨人の姿勢を明確にしたのだ。
岡田といえばドン・ブレイザーのもとデーブ・ヒルトンとレギュラーをめぐって大いにモメたり、顔が藤山寛美に似ているという印象ばかりが強かったけれど、この発言で認識が一変した。
岡田ってケッタイな男。
岡田ってオモロイやん。
私は彼が大好きになった。
岡田は大阪の玉造、私はほど近い布施で育っている。布施、玉造ともお世辞にも上品とはいえぬ土地柄。実家が町工場なのも同じ。鉄と油が交じった臭い。シミのついた菜っ葉服。日本人と韓国人、朝鮮人が入り混じる町。場末の居酒屋、オッサンたちが甲子園の戦況に一喜一憂する。
岡田への妙な親近感は、こういったバックグラウンドのせいかもしれない。
岡田が熱烈な虎小僧だったのは有名な話だ。父が阪神のタニマチだった関係で、62年の優勝パレードでオープンカーに乗り込み、73年の村山引退試合に招かれるという垂涎モノの経験をしている。
私の小学生時代、近所には巨人の野球帽しか売っていなかった。マークを引っ剥がし、祖母に無理を言ってのアップリケを作らせ縫い付けてもらった。そいつを被って三角ベースに興じる‥‥。スケールこそ違え、オカダとマスダ、二人の想いは半世紀以上も前からシンクロしている。
93年、阪神を自由契約となりオリックスへ移籍した際も、岡田は涙ながらに語った。
「これからも、ずっと阪神ファンであり続ける」
その後、一徹な阪神主義者が歩んだ有為転変は御存知のとおり。だが指導者、評論家時代も唯虎史観はブレない。異形のファンたる私も脱帽せざるを得ない。
今季の快進撃は、そんな岡田の采配の賜物だ。それなのに、今夜も念を送れば阪神は窮地に陥る。
そうなると、胸中を得体の知れぬ暗雲が立ち込める。このチームは下駄を履くまで安心できない。ネット民は15年前の13ゲーム差をひっくり返された悪夢をあげつらう。だが、そんなもん阪神の所業悪行の一端でしかない。62、64年の優勝はギリギリまでもつれている。73年に至っては最終戦で巨人に大敗、ペナントを持っていかれた。
「いやいや、しょーむないこと思い出さんでええ」
岡田なら「お~ん」と唇を尖らせるだろう。監督、申し訳ない——ところが、謝った尻からまた妙なモヤモヤが。
委細は次回!
増田晶文(ますだまさふみ・作家):昭和35(1960)年大阪生まれ。今月、時代小説「楠木正成 河内熱風録」(草思社)を上梓。
*資料・文献は最終回に掲載します