2位・広島に13ゲーム差をつける圧倒的な強さをみせつけ、6度目のリーグ優勝を成し遂げた阪神タイガース。それと同じ数だけ胴上げで宙を舞った岡田監督は、球団史上最速Vに「選手が力をつけてチームができたということ」と今シーズンを振り返った。果たして、18年ぶりの美酒を味わった阪神ファン歴50年以上の作家・増田晶文氏のモヤモヤは晴れたのか。
岡田彰布監督のしてやったりの笑顔、リーグの頂点に立っても増上慢にならぬ選手たち。とりわけ胸に響いた大山悠輔の涙‥‥。
阪神優勝の翌日、大阪出張だった息子が差し出してくれた土産は「関西スポーツ紙記念5紙セット」。いっちゃんええ紙面は「スポーツ報知」、阪神勝てども片隅でしか報道できぬ日頃の鬱憤が第1面から大爆発!
しかし、歓喜の余韻が醒めるにつれ頭をもたげてくるのは例のモヤモヤ。我ながらナンギな性格、でもこればっかりは仕方がない。
昔日、エースといわれた男の言葉が蘇る。
「巨人の選手にとって〝伝統の一戦〟なんて美辞麗句に過ぎない。阪神との対戦は気が楽。普通にやっていれば勝てる感覚でした」
彼は呆れていた。
「阪神の選手は塁上の走者を進めるとか、ホームへ還そうなんて考えない。頭の中は派手なホームランをかっ飛ばすことばっかり」
彼は阪神と巨人の決定的な違いを指摘した。
「巨人では本塁打より犠打が高く評価される。勝つための方程式を選手全員で遵守する野球なんです」
四球もシングルヒットと同じ。バッターは塁上のランナーを進め、ホームへ還すことに専心する。小技を駆使して繫ぎ、打順を点ではなく線にしていく。
「でも阪神はそんな攻撃をしないから全然怖くない」
ホームランバッターを並べても、玉将と飛車で将棋をやるようなもの。歩が活躍しないと勝てはしない。
「監督が求める野球を理解し、応援してくれるファンのために野球をする。それが勝つ野球。自分のために野球をしているうちは優勝なんて無理なんですよ」
だが、彼は肩をすくめた。
「勝つ野球に馴染んだ僕が、それをまったく意識しない阪神に移籍するなんて」
こう語ったのは小林繁だった。1979年1月31日、彼は江川卓との電撃トレードで阪神の一員に。世にいう「江川事件」だ。
同年、小林は巨人戦8連勝を含む22勝、防御率2.89で沢村賞(史上2人目の複数球団での受賞)、ベストナインを獲得してみせた。
小林は細身で苦み走った男前、若手だった明石家さんまが彼のサイドスローを形態模写して注目を集めたことも記しておこう。
そんな小林が、阪神にも勝つ野球を標榜した時期があったと証言してくれた。
「僕が阪神に来た時、田淵幸一を放出し、監督がドン・ブレイザーに代わりました。ブレイザーは南海ホークス時代に野村克也の片腕といわれた頭脳派。加えてスーパースターの田淵を排することで、阪神はようやく組織的な野球に取り組もうとしていました」
もっとも、阪神の改革はあえなく挫折してしまう。小林在籍中の最高位は81、82年の3位。引退して2年後の85年こそ吉田義男のもと日本一に輝くが、その後の不甲斐なさは周知のとおり。03年の星野仙一まで優勝から遠ざかり、05年の第一次岡田政権の栄冠を最後に再び長いトンネルに迷いこむ。
「阪神には歴史はあるけれども伝統がない。伝統というのは勝利のために受け継がれていくものなんです」
小林は辛辣だった。滔々と語る彼を前に、私は反駁できなかった。何しろ小林の指摘は、私が幼い頃に阪神ファンとなって以来ずっと付きまとっていたモヤモヤそのものなのだから。
増田晶文(ますだまさふみ・作家):昭和35(1960)年大阪生まれ。最新刊に時代小説「楠木正成 河内熱風録」。2025年のNHK大河ドラマの主人公を描く「稀代の本屋 蔦屋重三郎」(ともに草思社)も好評。