「私が愛する光進丸がこんなことになりまして…。ファンの皆さん、各方面の方々、多くのご迷惑とご心配をおかけしたことを、心からお詫び申し訳上げます」
2018年4月1日午後9時過ぎ、静岡県西伊豆の安良里漁港に係留されていた加山雄三所有の大型クルーザー「光進丸」から炎が上がったとして、下田署消防本部が出動。懸命の消火活動の末、翌2日8時半にようやく鎮火した。その日の午後7時過ぎ、沖縄から急きょ帰京した加山が、羽田空港で待ち受ける報道陣を前に記者会見を開き、憔悴した表情で語ったセリフが冒頭のものだった。
加山は前日、沖縄県宜野湾市でコンサートを開催。彼のもとに、37年間の歳月を共にした「光進丸」炎上の知らせが届いたのは、コンサート打ち上げの最中だったという。
加山は1964年、初代「光進丸」のオーナーとなり、焼失した船は3代目だったが、彼にとってこの船は文字通り「相棒」。1978年には「光進丸」という楽曲をリリースするほど、思い入れは深かった。
加山は記者会見で言った。
「本当に残念ですし、いろんなご心配をおかけしたこと、大変申し訳ございません。これほど悲しいことはない。これが私の本心です。長いこと私を支えてくれて、多くの幸せを与えてくれて、あの船からたくさんの曲が生まれて、大勢の方々と一緒に楽しい時間を持てました。思い出は山ほど、自分の半身を失ったくらいつらいです。長い間の相棒がこんな形で消えていくというのは、本当につらいです」
10代の頃、「若大将シリーズ」で鮮烈デビューを飾った加山。その後はテレビに歌番組に、活動は順風満帆かに思われた。しかし、父と叔父が経営する茅ケ崎のリゾートホテル倒産のあおりで23億円の負債を抱え、「芸能界の借金大将」と揶揄されたこともあった。
1991年には新潟県湯沢町に、総工費100億円といわれる「加山キャプテンコーススキー場」をオープンするも、若者のスキー離れと東日本大震災などにより、経営が悪化。2011年7月に、スキー場閉鎖を余儀なくされた。
だが、家を手放しての極貧生活を送っていた時でさえ、手放さなかったのが光進丸だった。加山と親しいテレビ関係者は、筆者の取材にこう語った。
「いつだったか、加山さんから『俺は船を買うために芸能界に入ったんだ』という話を聞いたことがありますからね。まさに光進丸は彼にとって体の一部だったはず。でも、何度も苦境に立たされながらも、持ち前の根性で乗り切って来た人。復活を期待していますよ」
86歳の加山は昨年末をもって、コンサート活動からは引退。音楽には今も関わり続けている。
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。