日本人で初めて美容整形を受けた女優が、明治時代から大正時代に活躍した新劇女優の松井須磨子だ。新劇は歌舞伎に代表される旧劇に対し、「小説神髄」で有名な坪内逍遥が主唱した、新しい舞台演劇のことである。本名は小林正子という。
長野県で生まれ育ち、父の死後、17歳で上京して戸板裁縫学校(現在の戸板女子短期大学)に学び、その後に結婚するが、わずか1年で離婚。女優を目指して、文藝協会演劇研究所に通うことになった。
情熱家で役作りに妥協を許さなかった人物で、しかも努力家だった彼女は、不動の地位を獲得。「日本のサラ・ベルナール」と呼ばれ、日本初の人気女優となった。と同時に、彼女こそが「日本初の整形女優」だった。
施術を受けたのは、最初の結婚に挫折した後だ。女優を志し、俳優養成学校に願書を出すが、鼻が低いとの理由で拒絶された。そのため、当時としては最新の技術だった、鼻筋にロウを注入する隆鼻術を受けたのである。
だが当時の整形技術は未熟なもので、後遺症に苦しめられた。注入したロウが比較的軟らかいもので、体温程度で不安定な状態となり、鼻筋からずれてしまうことが多かった。そのたびに、自らの手で押さえていたという。それが頻繁にあったため体が拒絶反応を起こし、鼻を中心に顔全体が腫れて、炎症を起こすことさえあった。
須磨子は「日本初のスキャンダル女優」でもあった。妻子ある文芸評論家・島村抱月と不倫関係にあったが、これが発覚。抱月は早大教授の職を追われることになる。
その後、2人で芸術座を起こし、数々のヒット作を世に出すが、当時流行していたスペイン風邪で、抱月は急死してしまう。絶望した須磨子は2カ月後、抱月を追って道具部屋で首をくくった。この時、抱月の写真を自分の写真で挟み、花と線香を手向け、女優髷と化粧をほどこした。わずか32歳の若さであの世へと旅立ったのである。
その顔は髪の毛一筋の乱れもない、安らかで美しいものだった。波乱に満ちた短い生涯は、多くの小説や映画、テレビドラマの題材となっている。
(道嶋慶)