満場一致での2度目のMVP選出に、ベーブ・ルース以来となる規格外の二刀流選手といえど、なぜドジャースは日本人選手と史上最高額となる10年1015億円で契約したのか。それはドジャースが「日本人なら信用できる」と確信するレジェンドの存在があったからだ。
それはアイク生原氏。1992年に亡くなるまで、ドジャース球団オーナー補佐を務めた日本人である。
生原氏は早稲田大学野球部出身。社会人野球を経て、現在の野球日本代表、井端弘和監督の出身大学でもある亜細亜大学の監督に就任する。亜細亜大学を東都3部リーグから1部に昇格させる手腕があったものの、自らの指導法に疑問を抱き、1965年に渡米。ドジャース傘下マイナーチームの用具係に転がり込む。用具係というと聞こえはいいが、最初の仕事は「スパイク磨き」だったという。
来季のメジャー開幕戦を韓国で開催するなど、アジア市場に熱視線を送るドジャースも、60年前は太平洋戦争の影響が燻っており、アジア人への差別は根強かった。今でもメジャー球団のベンチは、口の中の土ぼこりをペッと吐き出すツバやら、ガムやヒマワリの種のカスやらで汚い。1960年代ともなれば、噛みタバコやガムの残骸は現在の比ではない。そんなゴミ箱をひっくり返したようなベンチで、汚れたスパイクを大学野球部の名監督が磨き上げていたのだ。
仕事は丁寧かつ研究熱心。豊臣秀吉が草履持ちから立身出世したように、「スパイク磨き」から正規球団職員、さらには当時の球団オーナー、ピーター・オマリー一族の信頼を得て、2代目のオマリー会長補佐に登りつめる。
野茂英雄がドジャース入りする3年前に他界してしまったが、オマリー会長は野茂との契約に際し、
「アイクと知り合っていなかったら、日本人投手を獲るつもりはなかった」
とまで言っている。
日本人とドジャースには60年近い縁があるのだから、球団オーナーが全米屈指の投資家マーク・ウォルター氏に代わっても、ドジャースが獲りに手を挙げた時点で、他球団はコールド負けすることは分かりきっていた。
実は大谷のドジャース移籍報道に、アイク生原氏のアの字も出てこないことにモヤモヤしていた。筆者が駆け出し記者の頃、都内の新聞社内でBSメジャーリーグ中継をにらみながらドジャース・野茂の投球スコアを記録していると、隣で野茂の一球一球に熱いまなざしを送る「ドジャースおじさん」がいた。とにかく野茂がマウンドを降りるまで、黙って見ている。そのくせ、NBAレイカーズにも詳しい。謎はすぐに解けた。「ドジャースおじさん」は生原氏の実弟だったのだ。
ドジャースタジアムのマウンドに立った歴代7人の日本人投手はもちろん、大谷がドジャーブルーのユニフォームに袖を通すのを誰よりも見たかったのは、ロス郊外ホーリークロスの丘でオマリー元会長の傍らに永眠する、生原氏だろう。
(那須優子)