1月4日に、全日本プロレスのジャイアント馬場社長と新日本プロレスの坂口征二社長が協調路線を発表。2月10日の新日本の東京ドーム大会に全日本からジャンボ鶴田、天龍源一郎、スタン・ハンセン、谷津嘉章、タイガーマスク(三沢光晴)が参戦して、対抗戦が実現した。4月13日には、東京ドームでWWF(現WWE)&全日本&新日本の3団体共催の「日米レスリング・サミット」実現‥‥と、1990年の日本プロレス界は馬場とアントニオ猪木のBI対立時代を脱して、年頭からハッピーなムードに包まれて大いに盛り上がった。
そんな〝太平の世〟に大激震が走る。豊富な資金を(当時・株式会社共立)が参入‥‥大企業がプロレス業界に乗り込んできたのだ。
メガネスーパーとプロレスの最初の接点は新生UWF。前年89年5月4日の大阪球場大会のTBSテレビ2時間特番をスポンサーとして丸抱えしたのが始まりだった。
その後、8月13日の横浜アリーナでは冠スポンサーになって前田日明VS藤原喜明、髙田延彦VS船木誠勝などの5試合を賞金マッチとして、500万円を提供している。さらに11月29日の東京ドームでは後援資金として2億円を提供すると同時に、TBSテレビでの1時間半特番をスポンサーとして丸抱えした。
そして90年、メガネスーパーは田中八郎社長の下、新団体旗揚げに動き出す。そのブレーンは田中社長の友人と知り合いだった桜田一男(ケンドー・ナガサキ)、新日本で桜田のマネージャーをやっていた若松市政(将軍KYワカマツ)、89年3月に新日本で引退したドン荒川の3人だ。
メガネスーパーのプロレス界参入を最初に記事にしたのは、4月1日発行のデイリースポーツ。〈無差別引き抜き 新日激怒 高野が標的に 黒幕はメガネスーパー〉という見出しで〈プロレス団体と所属レスラーが契約更改に臨む年度末の3月も終わったが、平穏無事に見えた今年も〝引き抜き騒動〟が持ち上がった。舞台は新日本プロレス。標的となったのは前IWGPタッグ王者のジョージ高野と言われるが、引き抜き先として何とメガネスーパーの会社名が浮上してきたのだ。(中略)資金豊富のメガネスーパーだけに、実弾攻撃にぐらつく選手もいる。違約金はいくらでもOKというだけに今後も引き抜きの嵐は吹き荒れそうだ〉と記事にした。
ジョージ高野、記事には名前は出なかったが、佐野直喜の2人は3月28日に行われた恒例の花見大会を無断欠席。翌29日に2人は新日本の事務所で坂口社長以下の幹部と話し合いの場を持ったが、不調に終わったようで、坂口社長は集まった報道陣に「ある企業から高額なギャラで誘いを受けたらしい。向こうサイドと会って話をつけるから、記事にするのは控えてほしい」と異例の箝口令。
翌30日にも高野と佐野は事務所に来るはずだったが姿を見せず、31日に京王プラザホテルで行われた馳浩の結婚披露宴も欠席。もはや離脱は決定的になったことからデイリーは報道に踏み切ったのである。
表面に出たのは高野と佐野だけだったが、それ以前からメガネスーパーは新日本に触手を伸ばしていた。何と最初のターゲットは武藤敬司だったのだ。
武藤は前年89年にWCWでグレート・ムタとして大ブレイクしたが、そのムタと共闘していたのがドラゴン・マスターを名乗っていた桜田。武藤は89年10月の時点で、ジョージア州アトランタで桜田、渡米した若松にメガネスーパー新団体への参加を打診されていた。
武藤は3月17日に凱旋帰国。3月23日、坂口の引退試合が行われた後楽園ホールのリングで帰国の挨拶をしたが、この日の昼に新日本の事務所に花束を持って訪れている。
坂口が「そんなに気を遣わなくていいよ」と言うと武藤は「そうではなくて、新日本を辞める挨拶に来ました」と返答。武藤は帰国直後に田中社長の自宅に招かれ、高額のギャラを提示されると同時にマンションの鍵まで渡されていた。
坂口は武藤を説得、その場で田中社長に直接電話を入れて、武藤が新日本を辞めることはないと通達。事なきを得た。
メガネスーパーは武藤だけでなく、藤波にも接触していた。当時の藤波は腰痛による長期欠場からカムバックに向けて静岡県清水市の日本平でキャンプを張っていたが、その前に荒川の仲介によって東京駅前のホテルで田中社長と会い、億単位の契約金を提示されたという。
「田中さんはすごく真剣にプロレスのことを考えていて、好感を持てる人物でしたよ。評価という意味では嬉しい半面で、まだカムバック前で〝これで契約して、俺が試合できなかったら、どうなるのか〟という懸念もあったし、決断できなかったね」と藤波は言う。
武藤、藤波の獲得に失敗したメガネスーパーが次に狙いをつけたのは、全日本の大物選手だった─。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。