文太が「日本初の男性モデルクラブ」を経て俳優デビューしたことは知られているが、実はもう1つの顔があったと川地は言う。
「文ちゃんのことはモデル時代から知っていたけど、その頃、有楽町にあった『ブルースカイ』ってナイトクラブでジャズを歌っていたんだよ。とはいえ、前座だったから、まあジャズのまねごとみたいなレベルだったかな(笑)」
川地も梅宮と同じく、酔った文太を介抱する役回りが多かった。酒豪の川地が酔い潰れた文太を自宅まで送り届ける──それが毎夜のパターンだったと笑う。
「今はテレビ育ちの俳優ばっかりだから、文ちゃんが死んで『映画俳優』という人が少なくなるのが本当に寂しいね」
シリーズ5作目の「完結篇」(74年、東映)で武闘派の大友勝利を演じたのは、川地と同じく日活出身の宍戸錠である。小林旭という日活の大スターに続いて、画面を華やかにした。
「俺が出ることになったのは、菅原文太が呼んでくれたからじゃないかな。あれとは宮城県同士、学年も一緒だから」
その出会いは古く、宍戸が日大で、文太が早大法学部の学生だった53年秋に遡る。宍戸の下宿に、宮城の高校を出た4人の若者が集まっていた。
宍戸が生姜醤油で煮込んだサンマのブツ切りをつまみに、カストリ焼酎を飲みながら、夢を語り合う若者たちだった。
「俺が日活の第一期ニューフェイスを受けることになって、その新聞記事を見ながら文太に言ったんだよ。『俺も1人で行くより心強いし、キミはいい顔しているから、一緒に受けないか』って」
文太の返事は「仙台は田舎すぎたから、そんな環境を考えたこともなかった」と消極的なものだった。もし、宍戸の誘いを受け入れていれば、石原裕次郎や小林旭と対峙する日活スターの文太が実現していたのだろうか──。
「その場には浅利慶太もいて、彼の勧めで『劇団四季』の一期生になったんだよ。それからモデル、新東宝、松竹、東映と渡り歩いたけど、日活だけは文太は来なかったね」
宍戸の下宿で会ってから20年後、ようやく「完結篇」で共演を果たしている。あまり人をほめることのない宍戸だが、「仁義──」における文太は、貫録があってよかったと評価する。
宍戸や旭が日活からの参入なら、松竹の「男はつらいよ」にレギュラー出演中に乗り込んだのが前田吟である。第2作の「広島死闘篇」(73年、東映)で、広能組の舎弟・島田幸一に扮した。
「第1作を映画館で見て大きな感銘を受けて、まさか自分が出られるとは思いもしなかった。撮影中は京都の中島旅館に皆で泊まるんですけど、ここで文太さんに『深作欣二の組はこうだから』って、うれしそうに説明を受けたのが忘れられないですね」
公開から40年がたっても、不朽の名作と、文太の名は永遠に刻まれる。