2月13日から3軍の故障者班に合流した巨人・大勢に「第2の与田」を心配する声が聞こえてきている。
与田とは前中日監督の与田剛氏のことだ。与田氏は1989年のドラフト1位で中日に入団。最速157キロのストレートを武器に、1年目からフル回転した。当時の星野仙一監督から絶大な信頼を置かれ、新人としては当時最多となる31セーブを挙げ、最優秀救援投手と新人王のタイトルを獲得した投手だ。
だが、翌年は背筋痛に泣き、3敗2セーブでシーズンを終了。1992年には2勝5敗23セーブとまずまずの成績を残したが、自慢のストレートは、平均で10キロ近くも減速してしまう。その後はロッテ、日本ハムと渡り歩いたが、満足な成績を残すことができず、2000年に現役を引退している。
その与田氏と入団3年目の大勢が置かれた状況が、酷似しているというのだ。長年、プロ野球に取材に携わる遊軍記者は、次のように話す。
「与田氏が実質2、3年でプロ野球選手として終わってしまったのは、明らかに1年目の登板過多が影響しています。大勢もルーキーイヤーに、原辰徳前監督に酷使されたと言えます。2人とも能力はあるものの、長いシーズンを戦い抜くだけのスタミナ、体力がついていなかった。過保護にする必要はないが、彼らの野球人生を考えれば、無理をさせる反動は予想できたはずです」
名将と呼ばれた野村克也氏もかつて「ペナントを勝ち抜くには、投手の1人や2人は潰す覚悟がないとダメだった」と話したことがある。それでも、通常はヘッドコーチや投手コーチが監督に対し、投手起用に歯止めをかけるもの。だが、星野氏も原前監督も勝負が最優先の指揮官で、他人の意見にはなかなか耳を貸さないタイプだった。
まして大勢は、関西国際大学では3年生の秋に右肘の炎症でリーグ戦登板なし、4年生の春も右肘の疲労骨折で1試合の登板に終わるなど、故障に苦しんできた。
1年目は57試合に登板して1勝3敗37セーブ8ホールド、防御率2.05の堂々たる数字で新人王を獲得したが、昨年は右上肢のコンディション不良などで、大幅に成績を落としている。巻き返しを期した今年も、右ふくらはぎ痛による治療のため、春季キャンプを一時離脱している。無理は禁物の投手なのだ。さる巨人OBも言う。
「能力の高さに、疑う余地はない。でも、このまま守護神として起用し続けるのが、正解かどうか。配置転換も含めて考えた方がいいかもしれない。じり貧になってしまってはもったいない」
阿部慎之助監督の起用法、判断が待たれるところだ。
(阿部勝彦)