高倉健は俳優という職業柄、さまざまな出会いを重ねた。それは「鳥肌の立つような人」だったり、時には「砂を噛むような出会い」でもあった。さらに、愛する人の死で味わった“永遠の別離”もある。身を刻むような慟哭に耐え、極寒の地へと旅立つ。それは、映画に取り組むための過酷な儀式であった──。
「この歌、流してもらえませんでしょうか‥‥」
高倉健(享年83)は1本のカセットテープを取り出した。CMのロケでスペイン・マドリードへ向かう車の中、八代亜紀の「舟唄」が聴きたいと言ったのだ。
その車には脚本家の倉本聰、映画プロデューサーの田中壽一が同乗している。マドリードの風景に似つかわしくない歌ではあったが、田中はふと、高倉に聞いた。
「健さんがこれまでにやったことない役ってありましたっけ?」
「そうですね、刑事というのは最近、少ないですね」
かつて内田吐夢監督に「背骨を入れられた」と言うほどシゴかれた「飢餓海峡」(65年、東映)で若手のエリート刑事を演じて以降、ほとんどを任侠映画で過ごしてきた。東映を退社後も「君よ憤怒の河を渉れ」(76年、大映)や「幸福の黄色いハンカチ」(77年、松竹)、そして「野性の証明」(78年、角川春樹事務所)と“捕らわれの身、追われる身”が続いた。
高倉が愛聴した「舟唄」、ふとつぶやいた「刑事役」、さらに倉本の一言から一本の映画に結びついたと田中は言う。
「健さんの誕生日が近かったから、倉本さんが何かプレゼントしたいと相談してきたんですよ。私は『ホン(脚本)書いたらどうですか?』って言いました」
それが「駅 STATION」(81年、東宝)だった。射撃の名手である三上英次という刑事を演じ、倍賞千恵子が演じた居酒屋の女・桐子と一夜明けて結ばれる。そこには「舟唄」が重要な意味を持ち、カウンターの小さなテレビから何度も流れてきた‥‥。
田中は高倉の映画に関わったのは初めてだが、それ以前にも「君よ憤怒の──」や「八甲田山」(77年、東宝)で企画に名乗り出ている。諸般の事情で参加することはできなかったが、映画というジャンルにおいて、作品そのものも含めて「幻」となるケースは少なくない。
脚本家の高田宏治は、大ヒットした「三代目襲名」(74年、東映)を書いたが、その続きが消えた。
「1作目の『山口組三代目』(74年、東映)に続いて山口組を実名で取り上げてヒットしたから、警察のマークが厳しくなった。映画の興行収入が山口組の資金源になっとるんやないかという疑いや。そやから第3弾の製作が中止に追い込まれたね」
予定が空いた高倉に、代わりの「日本任侠道 激突篇」(75年、東映)を書いた。警察に厳しい追及をされた東映・岡田茂社長は、そのうっぷんを晴らすため菅原文太主演で「県警対組織暴力」(75年、東映)をこしらえている。
すでにアサヒ芸能でも三代目山口組・田岡一雄組長への高倉の敬慕は伝えているが、前出の田中壽一は81年7月23日の訃報直後、高倉と同行している。
「田岡邸の200メートル手前で車を停めて、私を残して弔問に訪れました。もう夜中だったので、あたりはひっそりとしていました」
結婚式には滅多に顔を出さないが、訃報には何を置いても駆けつける──それが高倉健である。