不老不死を地で行くような、室町時代から戦国時代にかけて活躍した龍造寺家兼という武将がいる。天文7年(1538年)に剃髪し、それ以降は剛忠を名乗っている。
昨今は人生100年時代といわれている。だが、あの織田信長が桶狭間の戦いを前に舞った謡曲「敦盛」の中にもある「人間五十年」が当たり前だった時代、93歳の高齢で戦場を駆け巡る、パワフルなジジイだった。
享徳3年(1454年)、肥前の国人である龍造寺氏13代当主・龍造寺康家の五男として誕生した家兼は、57歳にして分家・水ケ江龍造寺家を興した。ところが本家の村中龍造寺家の力が衰えたこともあり、実権を掌握。ついには龍造寺家の主家・少弐氏の筆頭家臣にまで上り詰めていく。
享禄3年(1530年)、田手畷の戦いで活躍した家兼は敵将・大内義隆に、少弐氏からの離反を持ちかけられることになった。真偽は明らかになっていないが、大内氏が主君の少弐資元を攻撃した際に、積極的に救援しなかったことから、資元が自害。そのため裏切り者との疑惑をかけられ、天文14年(1545年)、少弐氏の家臣・馬場頼周によって、家純ら2人の息子と周家ら4人の孫がことごとく謀殺されてしまう。
この時、家兼はかろうじて筑後国に逃げ、蒲池鑑盛の保護を受けることになった。翌天文15年(1546年)、蒲池鑑盛、鍋島清房の支援を受けた家兼は、93歳にして決起する。
兵を率いて肥前に入ると、かつての居城・水ケ江城を攻撃して奪還に成功し、その勢いのまま、築城中の祇園城にいた馬場頼周勢を急襲。頼周が居城・綾部城を目指して逃げところを捕まえ、その首を叩き落として一族の無念を晴らしたという。
水ケ江城は取り戻したが、すっかり燃え尽きてしまった家兼は、鍋島清房ら家中の者たちに「仏門に入っていた曽孫の円月を還俗(げんぞく)させ、水ケ江龍造寺家を継がせよ」と遺言を残した。これに安心したのか、天文15年(1546年)に家兼はその生涯を閉じる。
円月はその後、家兼の遺言の通りに名を龍造寺胤信と改め、水ケ江竜造寺家を継いだ。後年、名を隆信と改め、戦国時代の九州で活躍した。
(道嶋慶)