江戸時代初期、大名を相手に現在の価値で約6億円にも及ぶ詐欺事件を起こした人物がいる。徳川家康の懐刀と呼ばれた本多正純の重臣・岡本大八である。キリシタンで、洗礼名はパウロという。
慶長14年(1609年)、肥前日野江藩(のちの島原藩)主・有馬晴信の朱印船がポルトガル領マカオに寄港した際、配下の水夫がポルトガル船マードレ・デ・デウス号の船員とトラブルを起こした。マカオ総司令アンドレ・ペソアによって、60人ほどが死亡することに。
その後、駿府にいる家康への弁明のため、ペソアが来日し、長崎に滞在していた。晴信はそのタイミングで、家康に報復の許可を求めた。
許可が下り、命の危険を感じたペソアが逃げ出そうとした矢先、晴信が船団を引き連れて長崎入り。ペソアが乗るデウス号を、長崎港外で4日4晩かけて攻撃した。ペソアは船中で爆薬庫に火を放ち、自決する。これは「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」と呼ばれるが、この際の監視役のひとりが大八だった。
ポルトガルへの報復を果たした晴信は、かつて龍造寺家との争いで生じた失地を、ペソア討伐の恩賞として回復したい、との期待を抱いていた。大八はこれにつけ込んだ。
晴信は大八が同じキリシタンであり、家康のための朱印状を見せられたことから、全面的に信用した。その結果、6000両にも及ぶ金銭を、運動資金として騙し取られてしまったのだ。江戸時代初期、1両の価値は現在の10万円に相当する。約6億円の賄賂だ。
だが、恩賞の沙汰があるはずもない。しびれを切らした晴信が正純と直談判したため、この詐欺行為が発覚。慶長17年(1612年)、晴信と大八の直接対決が行われた。
その結果、大八は駿府市中を引き回しの上、安倍川の河原で火あぶりの刑に処せられたのである。晴信も失地回復のために賄賂を渡した罪で、最終的に切腹を命じられたが、キリシタンであることを理由に、自害を拒否。家来によって斬首されている。
これが「岡本大八事件」と呼ばれる、江戸時代を代表する疑獄事件である。
(道嶋慶)