ソフトバンクの山川穂高が、4月13日のベルーナドームでの西武戦で「2打席連続満塁アーチ」を放ち、チームは11-2で圧勝した。
昨年まで在籍していた西武の本拠地での試合。山川は西武ファンの容赦ないブーイングを浴びたが、そんな逆境の中での迫力弾だった。
1試合で2本のグランドスラムを達成したのは、プロ野球史で3人目。2打席連発は2006年年4月30日の巨人・二岡智宏に続き、2人目だ。
この快挙でメディアに名前を取り上げられたのが、1人目の「1試合2満塁本塁打」達成者の飯島滋弥である。日本プロ野球史上初めてこの大記録を達成した飯島は、どんな選手だったのか。
1918年(大正7年)、千葉県生まれ。千葉中学時代に甲子園に2度出場し、慶應義塾大に進学。卒業後は軍用機の製造メーカーである日立航空機に入った。
右膝と視力が悪かったため、軍に招集されることは免れて終戦を迎え、戦後の1946年(昭和21年)に新設球団のセネタース(東急・急映フライヤーズ)に加入。プロ野球生活がスタートした。
青バットの大下弘と共に中軸を任された飯島は、1年目から活躍。1949年(昭和24年)に大映スターズに移籍すると、1952年(昭和27年)には首位打者に輝いた。1955年(昭和30年)まで実働10年で901安打、115本塁打。生涯打率は2割8分2厘だった。
そんな飯島が大記録を達成したのは、1951年(昭和26年)10月5日。名古屋市の大須球場で行われた阪急戦の1回表に満塁本塁打を放つと、7回には2本目となる満塁本塁打と3ランという「1イニング2本塁打」も達成したのだ。1試合11打点と、1イニング7打点は、今もプロ野球記録として残っている。
引退後は解説者として活動した後、1967年(昭和42年)に東映フライヤーズの打撃コーチに就任。まだ開花する前の大杉勝男を指導し、ホームラン打者に育てた。
前年まで2年間で9本塁打だった大杉はこの年、27本塁打と急成長。1970年(昭和45年)から2年連続本塁打王に輝くが、飯島がその勇姿を目にすることはできなかった。スポーツライターが解説する。
「1969年(昭和44年)限りで東映を退団した飯島は、翌1970年8月9日に胃ガンで急死。51歳でした。あと2カ月生きていれば、愛弟子の本塁打王獲得を知ることができたんですけどね。その大杉も1992(平成4年)に47歳の若さで亡くなりました。師弟共に早逝したのは、何かの因縁なのでしょうか…」
飯島が大杉を開眼させた言葉「月に向かって打て」は、球史に残る名言として、今も語り継がれている。
(石見剣)