これこそ因果応報か。実の孫娘に毒殺されたとされる、室町時代から安土桃山時代にかけての武将がいる。それが甲斐親直で、出家後は宗運の号を名乗った人物だ。
肥後(現在の熊本県)の阿蘇神社大宮司・阿蘇惟豊の重臣である甲斐親宣の子として生まれ、宋運は大永3年(1523年)、初陣で活躍し、800町(一町は約3000坪)の領地を与えられた。天文10年(1541年)の木倉原の戦いでは、主君に反旗を翻した御船城主・御船房行を討伐。その功によって、1000町の領地と御船城城主の座を与えられた。
宗運は主君・阿蘇氏への忠節を頑ななまでに貫いた人物で、主家を裏切ろうとする者や、主家の政策に背こうとする者を容赦なく粛清したことで知られている。それは息子とて例外ではなく、日向(現在の宮崎県)の伊東義祐に接近を試みた次男・親正や三男・宣成を誅殺。四男の直武は国から追放した。
この厳しい処分に異議を唱えた嫡男の甲斐親英は、宗運の暗殺をもくろんだほどだが、この計画は事前に露見してしまう。
本来はこの未遂事件の責任を追及されて、親英は殺害されるところだったが、嫡男であることに加えて、戦国時代といえどもわが子を一度に殺害しようとする過酷な処分に対して家臣たちが嘆願し、思いとどまっている。
だが、宗運の性格を知る親英の妻は「舅は必ず夫を成敗する」と考え、娘(のちに木山備後守惟久の妻)に命じて、宗運の毒殺を実行させたという。
親英の妻は同じ阿蘇氏家臣・黒仁田親定の娘だったが、親定はかつて伊東氏に内通したため、宗運によって暗殺されている。
親定を殺害するにあたり、宗運は親英の妻に「父の殺害を決して恨まず、また宗運に復讐を企てない」と誓約させた。そのため、親英の妻は自ら手を下さずに、宗運を油断させる意味もあり、娘に命じたのである。
この時、宗運は75歳だったため、高齢のためか、本当に毒殺だったのかは、今現在も見解が分かれているところだ。
(道嶋慶)