企業を倒産させるのは3代目が6割と最も多く、2代目と3代目社長を足すと、9割を超えるという。「会社は初代が大きくし、2代目が傾け、3代目が潰す」という言葉のゆえんである。
そして戦国、江戸時代にも、そんな言葉が当てはまる大名家が存在した。虎退治で有名な戦国武将・加藤清正の一族だ。
清正のあとを継いだのは、忠広である。慶長6年(1601年)、清正の三男として生まれたが、兄の虎熊、熊之助(忠正)が早世したため、世子となる。同16年(1611年)、11歳で二代目肥後熊本藩主となったが、この時代に加藤家は傾いた。
清正の死と同時期に重臣の大木兼能が殉死し、国元で清正を補佐していた下川又左衛門も病死したからである。お家のピンチだったが、若年の忠広では家臣団をまとめられず、重臣たちは牛方と馬方に分かれる「牛方・馬方騒動」などで対立。
さらに、忠広自身も徳川家の血筋である正室・崇法院をおろそかにし、側室・法乗院を偏愛したため、トラブルが勃発。藩内はガタガタになった。
そして三代目となるはずの長男・光広が悪ノリした。ただ単に家臣を驚かすため、諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状を作成したのである。光広の母は2代将軍・秀忠の養女であり、家康の曽孫だったため、多少のイタズラには目をつぶってもらえると思ったのだろうが、世の中はそんなに甘くはなかった。
それまでの行状と、この3代目が作成したニセの連判状が問題視され、寛永9年(1832年)、忠広は改易処分を受けることになったのだ。
忠広は清正が築いた名城・熊本城を追われ、出羽庄内藩主・酒井忠勝にお預けとなった。出羽国丸岡に一代限りで1万石を与えられた忠広は、母・正応院や側室、家臣とともに、50人の一行で丸岡入り。その後は文学や音曲に親しみ、22年も過ごしたという。
一方、ニセ連判状を作った3代目・光広は飛騨国高山藩主・金森重頼に預けられたが、1年後の寛永10年(1633年)に病死。忠広の次男・正良は藤枝姓を名乗ったが、父の死後にあとを追って自刃した。
忠広は丸岡で2子をもうけたといわれ、子孫は明治天皇が行幸した5000石相当の大庄屋・加藤与治左衛門家として存続。日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号である加藤セチが、最後にこの家系を継いでいる。
(道嶋慶)