「武双山VS千代大海」大相撲名古屋場所・1998年7月13日
「ヘビー級のボクシングの試合より面白かったんじゃないの」
土俵下の佐渡ヶ嶽審判部長(元横綱・琴櫻)の一言が全てを物語っていた。
「若いんだからいいんじゃない。素手だからな。音もすごかったよ」
1998年名古屋場所9日目。東前頭二枚目・武双山と西関脇・千代大海との一番は、好角家の間で、今も語り草である。
7月13日、愛知県立体育館。新旧の大関候補対決は武双山の強烈な右の張り手から始まった。
目には目を、とばかりに千代大海も右を張り返す。ここから先は、相撲というよりも殴り合いだ。
千代大海の左張り手、いや左フックが大きく空を斬る。にらみ合いながらも距離を取った武双山は「来いよ!」とばかりに挑発の仕草を見せる。
自らが仕掛けたはずなのに「つい挑発に乗ってしまった」と武双山。「ああなったら男の意地だよ。ケンカは十段なんだけどな」と千代大海も負けていない。
武双山10発、千代大海7発。最後は突き出しで武双山に軍配が上がった。
当時、武双山の体重が169キロであるのに対し、千代大海は160キロ。重量級の張り手が炸裂するたびに、館内にはドスッ、バシッという鈍くて重い音が響き渡った。
親方衆の中には「相撲道にもとる行為」と眉をひそめる向きもあったようだが、これも相撲の一部か。
相撲の起源といわれる野見宿禰と當麻蹶速の天覧相撲は、「日本書紀」によると、互いに足で踏みつけ合い、最後は宿禰が蹶速のあばら骨をへし折り、勝者となっている。この時の傷が原因で、蹶速は命を落としたとされる。
話を武双山対千代大海戦に戻そう。両者とも得意手は突き、押しでタテへの突進には定評があった。
まだ日本のラグビーが弱かった頃の話。日本代表の強化委員長をしていた宿澤広朗にFWの強化策について聞くと「武双山のようなフランカーが欲しい」と語った。今となっては懐かしい話だ。
一方の千代大海は「ケンカ十段」と名乗るだけあって、ストリートファイトでは負け知らず。小・中学時代を過ごした大分では、泣く子も黙る武闘派だった。
千代大海の数ある武勇伝のひとつに〝大分川の決闘〞というものがある。
千代大海少年は、まだ中学2年生。仲間のひとりが不良高校生に因縁をつけられ、殴られた。
「仇をとってやる!」
そう誓った千代大海少年は大分川の橋のたもとに11人の高校生を呼び出し、大声で怒鳴り上げた。
「やったやつは出てこい!」
この時点で勝負ありだ。千代大海少年の、あまりの剣幕に恐れをなした高校生たちは戦意喪失し、土下座までして謝ったという。
「二度と弱い者いじめはするな!」
かくして〝大分川の決闘〞は千代大海少年の圧勝に終わったのだ。事の顚末は自著「突っ張り」(東京新聞出版局)に詳しい。
その著書には、武双山戦に関する記述もある。
〈張り合った時間は、たったの32秒と聞くが、オレにとって、10分くらいに長く感じた。けんか(突っ張り)に勝って、相撲に負けた一番だった〉
勝ち名乗りを受ける武双山の口のまわりは血に染まり、顔面はドス黒く変色していた。
二宮清純(にのみや・せいじゅん)1960年、愛媛県生まれ。フリーのスポーツジャーナリストとしてオリンピック、サッカーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。最新刊に「森保一の決める技法」。