「桐生一VS樟南」夏の甲子園準決勝・1999年8月20日
甲子園、特に夏の大会の優勝投手ともなれば、その知名度はアイドルをはるかにしのぐ。
1980年以降の優勝投手を見ても、以下のように多くの者が、プロで活躍している。
愛甲猛(80年・横浜)、金村義明(81年・報徳学園)、桑田真澄(83、85年・PL学園)、野村弘(87年・PL学園)、吉岡雄二(89年・帝京)、松坂大輔(98年・横浜)、正田樹(99年・桐生一)、近藤一樹(01年・日大三)、斎藤佑樹(06年・早実)、堂林翔太(09年・中京大中京)、藤浪晋太郎(12年・大阪桐蔭)、髙橋光成(13年・前橋育英)、小笠原慎之介(15年・東海大相模)、今井達也(16年・作新学院)、清水達也(17年・花咲徳栄)‥‥。
この中で最も多くの球団を渡り歩いたのは99年の優勝投手・正田である。日本ハムを皮切りに阪神、興農ブルズ(台湾)、新潟(独立リーグ)、東京ヤクルト、Lamigoモンキーズ(台湾)、愛媛(独立リーグ)と7球団でプレーして、23年に42歳で現役を引退した。「甲子園優勝投手の重み」について聞くと、こう答えた。
「NPBを引退する時、台湾や独立リーグの球団に入団する時、そして(23年オフに)ヤクルトのコーチに就任した時など、必ず、〝甲子園の優勝投手〞という紹介文がつく。その時に重みを実感します」
正田の左腕が輝いたのは、25年前の夏だ。6試合で708球を投げ抜き、3完封、防御率0.85。圧倒的なパフォーマンスで、桐生一を全国優勝に導いた。
しなやかな腕の振りが天性のセンスを物語っていた。ピンチに立たされてもポーカーフェースを崩さず、黙々と投げ続ける姿が印象に残っている。
エースにとって最大の試練は、99年8月20日の準決勝・樟南(鹿児島)戦だった。1回戦から準々決勝までの4試合を、ほとんどひとりで投げ抜いた疲れが、利き手である左手の中指を襲った。
「実は前の試合から血豆ができ、それを医療スタッフの人に注射で抜いてもらってマウンドに上がっていたんです」
血染めのボール——。オールドファンなら劇画「巨人の星」のワンシーンを思い出すだろう。
こちらも夏の甲子園準決勝。青雲の星飛雄馬は熊本農林の主砲・左門豊作の折れたバットを利き手の左手ではたき落した際、親指を負傷してしまったのだ。
決勝の相手は飛雄馬の最大のライバル花形満擁する紅洋。親指を負傷し、全力投球ができない飛雄馬は、花形を敬遠する。「卑怯者!」となじる花形。0対0のまま最終回へ。出血ですっぽ抜けたボールを花形はスタンドに運び、決着が付くのだが、外野から戻ってきたホームランボールには血のりが付いていた。そこで花形は全てを理解したのである。
話をリアル甲子園に戻そう。正田は中指の腹の部分でボールを切るカットボールを得意としていた。それを投げるたびに痛みに襲われた。
樟南の上野弘文も、後にドラフトで広島に指名される好投手だ。0対0のまま、試合は9回表。桐生一は2死二、三塁で高橋雅人の右中間三塁打が飛び出し、均衡を破った。試合は2対0で桐生一が勝った。
翌日の決勝は岡山理大付に14対1と大勝。かくして群馬県に初の深紅の大旗がもたらされたのである。
二宮清純(にのみや・せいじゅん)1960年、愛媛県生まれ。フリーのスポーツジャーナリストとしてオリンピック、サッカーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。最新刊に「森保一の決める技法」。