200人のオンナ鉄砲隊を指揮して徳川家康にはったりをかまし、1万石を勝ち取った戦国時代の女性がいる。織田信長の乳兄弟である池田恒興の娘・池田せんだ。
せんは父と同じ織田家臣で、鬼武蔵と恐れられた森長可に嫁ぎ、嫡男の森玄蕃、娘のおこうをもうけたが、幸せは長く続かなかった。
信長亡き後、豊臣秀吉に仕えた長可が天正12年(1584年)、秀吉と徳川家康が争った小牧・長久手の戦いで、27歳の若さで討ち死にしてしまっただけではない。この時、父・恒興も戦死してしまったからだ。
父親と夫を亡くしたせんは周囲の勧めもあり、中村一氏と再婚。天正18年(1590年)には嫡男・中村一忠を生んでいる。だが、せんは家族運に恵まれない女性だった。
今度は夫・一氏が慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦前に病死してしまう。さすがに世をはかなんだのかもしれない。その後は出家して安御院と称し、関ヶ原の戦いでの戦功で伯耆国17万5000石の大名となった一忠の庇護を受けるようになった。
ところが、その頼りになる息子も慶長14年(1609年)に、20歳という若さで急死してしまう。この時、一忠には後継ぎがいないため、徳川幕府により改易(所領没収)、御家取り潰しの処分が下った。とはいえ、そのままでは家臣団ともども路頭に迷うため、せんは黙って引き下がらなかった。
城内にいる侍女200人に完全武装させ、全員に火縄銃を持たせただけではない。城を受け取りにくる使者に聞こえるように、試し撃ちを何度も繰り返し、威嚇するようなパフォーマンスに打って出たのである。
この前代未聞ともいえるオンナ鉄砲隊の姿に、さすがの家康も頭を悩ませた。せんに堪忍分という名目で毎年、1万石分の生活費を保証。なんとか城の受け渡しを終えたという。
領地として1万石の所領をゲットしたわけではないが、ブラフで大名並みの待遇を勝ち取るとは、なかなかの度胸というべきか。
(道嶋慶)