「スポーツに政治が介入すべきではない」
これは正論だと思う。しかし、現実は違う。「スポーツイベントは政治そのものだ」…そう痛感させられたのが、2002年サッカーW杯の日本と韓国による招致合戦だった。
日本は1989年にW杯招致の意思をFIFA(国際サッカー連盟)に示し、1991年に招致委員会を発足させた。これを受けて韓国は、1993年にW杯招致の立候補を表明。韓国政財界に多大な影響力を持つ大韓サッカー協会会長で、現代重工会長の鄭夢準(チョン・モンジュン)氏を中心に、1994年に招致活動を開始した。
本来なら同じアジアサッカー連盟の仲間でもあるはずの韓国がなぜ、日本に対抗することになったのか。その原因のひとつと言われたのは、鄭夢準氏が日本から屈辱的扱いを受けたから…というものだ。
日本がW杯招致を表明後、国立競技場で行われた国際試合に鄭夢準氏を招待した。ところが日本のサッカー協会側は鄭氏に来賓席を用意せずに、プラスチック製の一般席に座らせたというのだ。単なる手違いなのか、無意識に鄭氏を軽く見ていたのかは定かではないが、この扱いに鄭氏は激怒したという。
かくして日本と韓国の熾烈な招致バトルがスタート。日本側はFIFAで絶大な権力を握っていたアベランジェ会長の支持を得た。ただ、日本は同会長を妄信しすぎた、とも言えるだろう。
当時のFIFAは会長と理事を含め、わずか21人の投票でW杯開催地を決定していた。五輪以上と言われる世界最大のビッグイベントを決めるにはあまりにも少数であり、理事らへの買収工作は容易だった。その中心にいたアベランジェ会長はFIFAの金権体質の象徴と言われ、敵が多かった。
こうしたFIFAの組織的問題を察知していた鄭氏は1994年にFIFA副会長に立候補し、当選。FIFAの内側からアベランジェ派を切り崩す作戦を取ったのだ。
結果的にこれが奏功。当時のFIFA内は会長再選を目指すアベランジェ派と、これを阻止すべくうごめく派閥が存在していた。W杯招致合戦は、FIFAの激しい内部抗争の象徴でもあったのだ。
日本協会の招致活動は悪い意味で、マジメすぎた。招致活動の中心となった協会幹部の多くはアマチュアサッカー出身で、招致活動のモットーとして「スポーツマンシップ」「フェアプレー」を口にしていた。
しかし、そんなものが通用する相手ではなかったのだ。日韓共催が正式に発表されたのは、1996年5月31日。ただ、その半年くらい前から「政治的決着で共催となる」との噂が流れていた。この噂について協会幹部は「FIFAの規定にW杯開催国は1カ国と書いてある」「スポーツに政治が介入すべきではない」と笑って否定していたものの、最終的にアベランジェ派は数的不利となり、反アベランジェ派が推進する日韓共催を受け入れざるをえなくなった。日韓の政治的な後押しがあったのは間違いない。
当時の韓国は財政的に、単独開催は難しいと言われていた。しかし、日本の単独開催となると、反日感情は高まる。政治的には共催がベストな選択だったのだろう。
共催決定後、憮然とした表情の日本サッカー協会・長沼健会長と、満足気な鄭会長。その表情が全てを物語っていた。
結局、鄭会長の思い描くシナリオ通り…ということなのだろう。それがあのプラスチックのイスが発端だとすれば、その代償はあまりに大きかった。
(升田幸一)