将棋の七冠・藤井聡太王座の初防衛をかけた「第72期王座戦5番勝負」は、まさに修羅場だった。9月30日に京都市「ウェスティン都ホテル京都」で開かれた第3局は、先手の挑戦者・永瀬拓矢九段の猛攻に、藤井王座が7月の「王位戦」で挑戦者の魔王・渡辺明九段が仕掛けたのと同じ「千日手」を狙う局面があった。
藤井は持ち時間のない「1分将棋」に入った最終盤、後手164手目でAI予測では4番手の「悪手」9六香という捨て身の策に打って出る。実はこの悪手はAIの先をいく、永瀬の自滅を誘う「罠」。永瀬は手持ちの金と銀、歩の中から9七歩で応じたが、この合駒によって、藤井を詰めに追い込むことができなくなる。昨年の王座戦に続き、永瀬の指から勝利がするりと逃げていってしまった。
見ているだけで息苦しくなる、ヒリヒリする展開だったが、この対局が注目された理由は別にある。10月3日発売の将棋専門誌「将棋世界」11月号のインタビュー記事で、永瀬は自分が抱える「障害」をカミングアウトしているのだ。詳しい内容は同誌を参照してほしいが、永瀬はかつてアスペルガー症候群と言われていた発達障害のひとつ「自閉スペクトラム症」だそうで、生きづらさを抱えてきたことを告白している。
将棋にウエイトを置きすぎると、人とのコミュニケーションに支障が出るという。かといって「プロ棋士」として生きていく以上、勝負強さも最低限の社会性も、生活に必要なコミュニケーション技術も求められる。将棋を取るか、人間としての営みを取るか、プロ棋士ならではのジレンマに悩んでいたというのだ。
藤井、永瀬とは分野こそ違えど、大リーグの公式戦終了後、ドジャースの大谷翔平は人智を超えた今季の活躍の原動力が「毎日、同じ時間に同じことをするルーティン」と真美子夫人、愛犬デコピンとの新生活にあったと振り返っている。大谷もまた野球に埋没する代償として、シーズン中に外食に出かけることはほとんどなく、1日の半分以上を睡眠と休息に充てている。そう考えると、天賦の才を持った人物の「ストイックさ」と「生きづらさ」の境界線は実に曖昧だとわかる。
小中学生の間で空前の将棋ブームが起きているのも、今どきの子供達が抱える「生きづらさ」「友人関係」と無縁ではないのだろう。将棋盤を前にすれば障害の有無、年齢、性別、属性など関係なく「勝負あるのみ」。学校の「将棋・囲碁部」を覗くと、通常級と支援級の児童、生徒が真剣勝負を繰り広げている。支援級の下級生が、通常級の上級生をコテンパンに負かしていたりするから面白い。
昨年に続き、藤井の大逆転劇を許してしまった永瀬だが、王座戦の死闘とインタビュー記事を読んだ、同じ障害を抱える子供達が永瀬に憧れ、「将棋道」を目指すことになるのだろう。
(那須優子)