三塁側ベンチから阪急(現オリックス)監督・西本幸雄がマウンドに歩み寄った。マウンドでエースの山田久志がうずくまっていた。立ち上がれなかった。
ファンのバンザイの嵐の中、王貞治が珍しく飛び上がって本塁を踏んだ。ナインの祝福の輪の中で揉みくちゃにされた。
勝者と敗者-。雲1つない青空の下で明と暗がクッキリと分かれた。
1971年10月15日、1勝1敗で迎えた巨人対阪急の日本シリーズ第3戦は13時2分に試合が始まった。
急 0 1 0 0 0 0 0 0 0=1
巨 0 0 0 0 0 0 0 0 3=3
同年のシリーズの流れを決定的にしたのは、シリーズ史上2度目となる王の逆転サヨナラ3ランだった。
9回2死一、三塁。それまで2安打と抑えられていた山田に対し1-1から快音を残した白球は、ライナーで右翼席中段に吸い込まれた。15時27分だった。
「真っすぐだったと思う。手応えはあったけど。あんないい当たりをするとは思わなかった。自分でも驚いた」
シリーズ史上あまりにも有名となった逆転サヨナラ3ランを振り返ると、〝伏線〞とも思える5つのポイントがあった。
1 8回裏、代打・上田武司の安打
V9時代の巨人にとって4度目の対決となったこの年の阪急は最強だった。
投打のバランスが取れ、なんと言っても強力な先発陣に新たなエースが誕生していた。富士製鉄釡石から入団したアンダースロー、23歳の山田である。プロ3年目にして22勝を挙げていた。
西本は前年4位から2年ぶり4度目のリーグ優勝を達成した。
この試合、阪急は2回に大熊のタイムリー二塁打で先制していた。
山田はスピードに緩急を付けて高低、左右とストライクゾーンをいっぱいに使った絶妙のピッチングを展開していた。
実際、9回裏1死まで被安打は2、無四球である。2回裏に末次民夫(現・利光)が二塁打、8回裏2死後には代打・上田がしぶとく中堅右に落としていた。それでも山田は次打者8番・吉田孝司を中飛に打ち取ってこの場をしのいだ。
だが上田を抑えていれば、9回裏は吉田から始まり、巨人のクリーンアップに回ってこなかったかもしれない。
2 王が柴田に囁いた言葉とは-
巨人は9回裏に先頭、投手・関本四十四の代打・萩原康弘が三振に倒れ、1番・柴田勲が打席に向かった。ここで柴田は王に言われていた。
「なんとしても塁に出てくれ」
走者が出れば、変則モーションの山田もセットポジションになり、タイミングが合わせやすい。
柴田は粘った。2ボール1ストライクからの4球目。山田はボールと判定され、マウンドを蹴って悔しがった。そして、気落ちしたように初めての四球を出した。
山田は中1日置いての先発だった。10月12日、西宮でのシリーズ第1戦は巨人が2対1で先勝、13日の第2戦は阪急が8対6で雪辱した。
先発の山田は7回まで投げて2本塁打を浴びて4失点、同点の八回からマウンドを米田に譲っている。
柴田が歩いて次打者、代打・柳田俊郎は簡単に右飛に倒れた。2死。完封勝利は目前だ。3番・長嶋が登場。やはり、上田のヒットが効いてきた。
3 遊ゴロがヒットになった
長嶋は初球、三塁線に強烈なファウルを放った。カウント2-1となると、柴田が走った。長嶋は外角球に両手を伸ばして捉えた。かすった打球が緩いゴロで遊撃に転がっていった。
名手・阪本敏三が処理して試合終了‥‥と思われたが打球は中前へと抜けた。阪本は長嶋の打球の傾向を読んで、三塁寄りに守っていた。その分だけ広くなっていたのだ。
4 ああ、長嶋の勘違い
柴田は三塁まで進んだ。〝殊勲打〞の長嶋は柴田に言った。
「エンドランのサインだったよな」
盗塁のサインが出ていたというのだが、柴田はこう漏らしている。
「長嶋さんの勘違いです。でもエンドランのサインと思って、長嶋さんはバットを出した。それがボール球を振ってヒットになった」
局面は2死一、三塁で王に打席が回った。セットからの第1球はボール、第2球目はストレートでストライクを取って1-1、3球目は2球目と同じコースの低めだった。王は山田の109球目を見逃さなかった。
5 5番・末次がシリーズ絶好調だった
王を敬遠する手はなかったのだろうか。
2死一、三塁となると、西本監督を中心にナインが集まった。王は第2戦で山田から1号2ランを放っている。この日は三振、三振、遊ゴロだった。
どうする? 2死だ。勝負と決まった。しかし王の後を打つ5番・末次がシリーズを通じて絶好調だったのだ。
翌16日の第4戦、3回裏に巨人は長嶋の安打が絡んで2死一、三塁とした。阪急は前日の反省からか、王を敬遠して満塁策を取り、末次との勝負に出た。
末次が燃えた。足立光宏の初球を捉えて左翼席へ先制の満塁本塁打を放った。
巨人は第4戦、5戦と連勝してV7を飾った。末次はシリーズ通算19打数7安打、史上最多7打点の活躍でMVPに輝いた。
だがV7への流れを決定的に変えたのは、間違いなく王のサヨナラ弾だった。
この年は不振と言われた。9年連続40本塁打、打率3割が途切れたからだが、それでも39本塁打、打率2割7分6厘の成績である。さすがだった。
山田は長池徳二(現・徳士)、福本豊に抱えられながら西本とともにベンチに戻った。その後、王の一打を糧に球界を代表する投手に昇り詰め、今では史上最高のサブマリンと称されている。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。