あの奥寺康彦から「猛タックル」を受けたことがある。あれは1995年だったと記憶している。といっても正式な試合ではなく、年に一度行われるジェフ市原(現・ジェフ千葉)のスタッフとメディアの親睦試合でのことだ。その中のメンバーに当時、ゼネラルマネージャーの奥寺がいた。
筆者は何度かサッカーの試合に出たことはあるが、草サッカーレベルだ。その親睦試合で、筆者がへなちょこなドリブルで右サイドを駆け上がる…その時だった。ふと横を見ると、2メートルほど先から筆者に向かって両足を広げ、スライディングしてくる奥寺の姿が見えた。
直後に筆者の体は宙を舞い、深い芝生の上に転倒した。筆者の姿を見て奥寺は「悪い、悪い。大丈夫?」と声をかけてくれたが、実は不思議なほど大丈夫だった。筆者は何度か試合でスライディングタックルを受け、足首を痛めたこともあるが、驚いたことに、奥寺のタックルは激しいのに衝撃がなかった。スルリとボールを奪われ、体がフワリと宙を舞う…というのは経験がなかったことだ。マジックを見せられたかのようだった。もちろん、奥寺にとってはお遊び程度のプレーだったのだろうが、改めて欧州トップで活躍し続けた凄みを感じたものだ。
思えば彼はあまりに過小評価されていたような気がする。W杯はおろか、五輪出場も夢のまた夢…というサッカー氷河期に、欧州トップのドイツ・ブンデスリーガで、ケルンを皮切りに1977年から1986年のシーズン、ほぼレギュラーとしてプレーしたのは驚くべきことだ。ただ、その活躍はあまり報道されず、テレビ東京の「ダイヤモンド・サッカー」でプレーを見る程度だった。
市原のGM時代から「若い選手はJリーグで経験を積んだら、積極的に海外でプレーすべき」と語っていたが、今では若い有力選手が欧州でプレーするのは当たり前になった。それは氷河期に欧州に渡り、活躍した奥寺の功績が大きいと思うのだ。
(升田幸一)