米アカデミー賞は、地味な結果に終わった。地味の意味はいかようにもとれるが、興行面における「アカデミー賞効果」という点を考えてみると、地味な意味合いが、より鮮明になってこよう。
発表に合わせた作品では「ANORA アノーラ」「名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN」「ブルータリスト」などが国内で公開されていた。ビンゴとなったのは、作品賞など5部門受賞の「アノーラ」である。
今さらだが、洋画のアカデミー賞効果は年々、落ちている。近年では「オッペンハイマー」や「パラサイト 半地下の家族」など「効果絶大」な作品はあったが、この2本は例外的とみたほうがいい。
今後、ストリップダンサーを主人公にした「アノーラ」が数字を伸ばしていくのは間違いないが、内容ゆえにある程度、限定的だとみる。これは作品の高い評価とはまた、別の話である。
これに関連して、米メジャースタジオのエンタメ作品が、アカデミー賞からほぼ排除されている現実も見えてくる。一昨年に起こった俳優組合などのストライキで、製作の遅れがあったせいばかりではない。今年に限ったことではないからだ。
以前から、興行的な側面を支えるエンタメ作品が、どんどん賞から遠ざかっている。賞向き、興行向きの作品がある程度、分かれてきた。今年は特にその傾向が強い。
実のところ、これは日本映画も同じなのである。日本映画も映画賞はインディーズ系が占め、ヒット作品などの興行面を支えるのは大手作品だ。こちらも、その期間は随分と長い。
このような傾向は、日米のどちらが先かといったことではない。映画の価値観が、世界的に変わってきた。いわば、映画の「評価軸の多様性」だ。
見る人それぞれ、まるで異なった見解、感想を持つことが増えている。アカデミー賞は、作品「クオリティー」の捉え方の変化を表してもいる。エンタメ作品が脆弱になったわけではない。
では「アカデミー賞効果」は終わったのか。まだ、終わらない。例外はあるとして、存続はする。ただし、「効果規模」の縮小が、さらに鮮明になってこよう。
もちろんアカデミー賞は、その「効果」ばかりが、中心軸にあるわけではない。この賞に限らず、欧米の映画祭、映画賞は、政治や社会の情勢がかなりダイレクトに反映されている。最近のメディアは、その部分に触れることが多い。
個人的に大いに嫉妬するのは、その点である。賞自体が世界を写す鏡になっている。今後、その先鋭さは、ますます研ぎ澄まされていくのではないか。
日本の映画賞が政治、社会を写すとは、あまり言われない。それを目指すこともないが、映画自体がもっと政治、社会情勢を踏まえた内容であってほしい。そうなると、国内の映画賞も変わってくる。
(大高宏雄)
映画ジャーナリスト。キネマ旬報「大高宏雄のファイト・シネクラブ」、毎日新聞「チャートの裏側」などを連載。新著「アメリカ映画に明日はあるか」(ハモニカブックス)など著書多数。1992年から毎年、独立系作品を中心とした映画賞「日本映画プロフェッショナル大賞(略称=日プロ大賞)」を主宰。2025年に34回目を迎える。