「巨人 VS 近鉄」日本シリーズ第4戦・1989年10月25日
巨人は日本シリーズを22回制しているが、3連敗からの4連勝は、1989年の1度だけである。
この年の1月7日、昭和天皇の崩御に伴い、皇太子明仁親王が皇位を継承し即位した。元号も「平成」と改められた。
平成初の日本シリーズは巨人と近鉄の間で行なわれた。下馬評は2位・広島に9ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たしたセ・リーグ王者の巨人が、西武、オリックスとの三つ巴の優勝争いを僅差で制した近鉄を上回っていた。
だがシリーズ前半は、全く予想を覆す展開となった。藤井寺での第1戦を4対3で先取した近鉄は第2戦も6対3で逆転勝ち。東京ドームでの第3戦は先発・加藤哲郎の好投もあって3対0で完封勝ちを収めた。
試合後、7回途中まで巨人を3安打に封じて勝ち投手になった加藤は、記者の「(巨人は)ロッテより弱いんちゃうの?」という誘導尋問に乗ってしまう。「そりゃロッテに失礼や」「どっちが怖いか言うたら、ロッテの方やな」。ロッテはこの年の最下位球団だ。
後に、この点を加藤に質したら、「打線に関していえばロッテの方が上」と言ったにすぎなかった。
ところが翌日の新聞に掲載された加藤のコメントは、直截的なものだった。
〈今の巨人ならロッテの方が強い。このチームに負けたら西武、オリックスに申しわけないよ〉(読売新聞89年10月25日付)
これを見た巨人の選手たちが発奮し、第4戦からの4連勝につなげたというのが通説だが、事はそう単純ではない。近鉄特急を止めたのは、アガサ・クリスティの小説ではないが、巨人先発陣の「第4の男」香田勲男だった。
10月25日、東京ドーム。シリーズ第4戦。もう後のない巨人は1番にベテランの簑田浩二を入れ、3戦目で5番を打っていた岡﨑郁を3番に上げた。
この打順変更が奏功する。1回裏、ツーベースで出塁した簑田が犠打で三塁へ。岡﨑の犠牲フライで巨人が先制した。
シリーズ初登板の香田は、カーブを軸にした緩急を使った投球が持ち味だ。この年、レギュラーシーズンで7勝をあげた彼は、藤田元司監督の、とっておきの〝隠し球〞でもあった。振り返って香田は語る。
「近鉄の打者はラルフ・ブライアントを筆頭に、真っすぐのタイミングでどんどん振ってくる。真っすぐには滅法強いけど、緩急をつけたピッチングには脆い。ミーティングで、そんな話が出ていた。3戦目、ウチは完封負けをくらったんですが、リリーフで登板した水野雄仁や槙原寛己さんの緩急に近鉄打線は翻弄されていた。その試合にヒントがあったんです」
この試合、最強打者のブライアントに対しては〈三振、二ゴロ、遊飛、左飛〉。4打席とも走者を背負っての対決となったが、完璧に封じてみせた。
「ブライアントへの緩いカーブは、阪神のセシル・フィルダーを封じるために使い始めたもの。一度、彼にスライダーを東京ドームの(外野スタンドの)看板にぶつけられた。それが悔しくて使い始めた。投手コーチの中村稔さんや高橋一三さんから『緩いカーブを投げてみろ』と。それが、この試合で生きたんです」
終わってみれば5対0。香田は散発3安打、三塁も踏ませなかった。
3連敗からの4連勝。香田こそは大逆転劇の最大の功労者だった。
二宮清純(にのみや・せいじゅん)1960年、愛媛県生まれ。フリーのスポーツジャーナリストとしてオリンピック、サッカーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。最新刊に「森保一の決める技法」。