甲子園の抽選会には、サングラスに羽織はかまで登場。そのインパクトある風貌と物言いから「ヤクザ監督」と呼ばれたのが、島根県の開星高校野球部監督の野々村直通氏だ。
強烈な外見さながらに、広島県立府中東高校監督時代には春に一度、創部から率いる開星高校では、春夏計9度、甲子園出場(前身の松江第一時代を含めて)に導いた実績の持ち主だ。
ところがそんな名将の口から、高校野球界を揺るがす暴言が飛び出したのが、2010年の第82回選抜高校野球大会。その2日目、第一試合でのことだった。
対戦相手は36年ぶりの甲子園出場となった、和歌山県の向陽高校だった。同高は困難な状況を克服し、地区大会などで好成績を残したチームが対象となる「21世紀枠」を勝ち取っての出場だったが、結果はなんと、向陽が強豪・開星に競り勝ち、45年ぶりの初戦突破を果たす結果に。すると野々村監督は試合後の公式会見で、悲壮感に満ちた表情でこう言い放った。
「もう野球を辞めたい。死にたい。腹を切りたい。こんな試合にしかならないのは、監督の力が足りないということ。21世紀枠に負けたのは、末代までの恥。全国に恥をかいた。こんな恥をかくことは二度としたくない」
そして公式会見後に恒例となっている、地元テレビ局によるインタビューを拒否。「もう野球の話はしたくない」と、控え室のベンチでふさぎ込んだのだが、「21世紀枠」を蔑むかのような物言いは瞬く間に、大きな波紋を広げることになった。
日本高校野球連盟の小森年展事務局長が、これに反応。
「そういう発言があったのなら、島根県高野連を通じて、すぐに事実確認をしたい」
翌日には監督と本部長が甲子園球場の大会本部を訪れて、謝罪。野々村監督は報道陣を前に目を閉じ、嗚咽をこらえて黙り込んだ後、眼鏡を外して言った。
「なんとか島根を日本一にと思っていたので…」
野々村監督の暴言は学校内でも波紋を広げ、無期限の謹慎が決定。しかし、復帰を求める署名運動が起こり、1年後には現場へと戻る。その1年後、定年に合わせて同校を退職した。
退職後は松江市内で「山陰のピカソ」と呼ばれた美術教師時代の経験を生かし「似顔絵&ギャラリー」を開設。
だが、運命というのは不思議なものである。同校の監督が体罰問題で謹慎することになり、後任監督の人選が難航する中、校長から「野々村先生しかいません」と強い要請を受けた。そして再登板を決めたのが2020年。グラウンド復帰は8年ぶりである。この時、70歳手前だった。熱血監督は今も、孫のような選手たちと懸命に向き合っている。
(山川敦司)