高校時代は無名の控え投手だった黒田が、頭角を現したのは大学時代だった。広島スカウトの目に留まってプロ入りすると、その後は日本プロ野球界を代表する投手へと成長。メジャーでも名を上げたのは周知のとおりだ。津波のように押し寄せる数々の挫折を不屈の精神で乗り越えた「栄光前夜」を最後まで追いたい。
4月5日、日本武道館で行われた母校・専修大学の入学式に、黒田博樹(40)は大学時代を感慨深げに振り返るようなビデオメッセージを寄せている。
「今までの野球人生の中で、分岐点というか、大学の4年間というのは、本当に大きかったですから」
まだ大学に進学する前、黒田が在籍した当時の上宮高校硬式野球部は、同学年の西浦克拓や筒井壮など、のちにプロ入りする逸材がそろい“歴代最強”とまで呼ばれていた。だが、3年間、控え投手だった黒田はプロとは無縁の選手だった。声をかけてきたのは全国的には無名の甲南大学のみ。
黒田は、自身の著書「決めて断つ」の中で、当時の心境をこう明かしている。
〈地元である関西圏だし、そこで野球を楽しみながら続けよう〉
しかし、母・靖子さんは黒田の決断を覆す、予期せぬ言葉を口にするのだった。
「頼むから家から出てってくれ」
また、元プロ野球選手の父・一博さんも、
「もう一回、勝負をしてみたらどうだ」
と諦めかけていた野球への情熱を後押しした。
結果、黒田は東都大学リーグ最多31回の優勝を誇る古豪・専修大学のセレクションを受けることを決意する。当時、専修大学硬式野球部球部監督だった望月教治氏がセレクション時の印象について語る。
「毎年、上宮から選手を取っていて、黒田が受けに来た。上背があって手足も長く、体のバランスがよかった。ピッチャーは立ち姿の格好がいいやつが伸びるんですよ。投球自体は未熟で粗削りなところもあったけど、将来的には必ずチームの柱になると思った」
しかし、合格の最終決定を下す大学の理事会は難色を示した。
高校時代の黒田は、練習試合や交流試合といったオープン戦での登板がほとんどで、公式戦で投げた機会はごくわずかだったからだ。
「つまり、エースの消耗を防ぐための3番手ピッチャーだった。実績が不十分で、推薦入学の要件を満たしていなかったのです」(望月氏)
それから入部を切望した望月氏の奔走が始まった。
公式戦で投げる機会をほとんど与えられなかった黒田だったが、上宮高校が準優勝した91年、秋の近畿大会ではPL学園や天理などの強豪校を相手に好投していた。望月氏は、こうした数少ない実績を示す情報を集めたという。
「黒田と入れ違いで専修大学を卒業してドラフト1位でヤクルトに入団した岡林洋一というピッチャーがいましたが、『黒田は、岡林二世になる逸材。必ずすばらしいピッチャーになるから、ぜひ欲しい』と推薦文を綿々と書いて提出したんです」(望月氏)
こうした望月氏の熱意にほだされ、大学の理事会は特例で黒田の入学を了承した。不遇続きの高校時代を経て、新たな野球人生が始まるのだった。