大学野球の中でも最高峰に数えられる東都大学リーグ所属の専修大学に進学した黒田。しかも1年の春季リーグ戦でさっそく、登板するチャンスを得た。
意気込む黒田だったが、これまでの野球人生が連鎖したかのように試練は続く。1年の後半から2年の春にかけて肩の故障で戦線離脱したのだ。上宮高校でチームメイトだった横内誠氏が当時の様子を回想する。
「僕は関西の大学に進んだんですが、東京遠征に行った時に、クロちゃんと再会した。『投げるの?』って聞いたら、『肩を壊して、よう投げられへん』って。落ち込んでいましたね」
さらに黒田は、かつてのチームメイトを前にして、こう弱音を吐いたという。
「わざわざ親元を離れて、東京まで来たのに、何くすぶっているんかな」
大学野球では、過酷な寮生活にも耐えなければならなかった。
12年7月5日付の「ニューヨーク・タイムズ」で、黒田はこう語っている。
「大学時代の寮は4人部屋だったが、これが嫌だった。先輩の命令に従わなければ、正座の罰が待ち受けていた。しばらくすると視界がぼんやりしてゆがみ、足の感覚もなくなっていき、はうようにして部屋に戻った‥‥」
専修大学で黒田の1学年下だった元ヤクルト投手の萩原多賀彦氏が寮での恐怖体験を証言する。
「1年は奴隷、2年は平民、3年は神様、4年は仏様として扱われる完全なタテ社会。1年は早朝に起きて、先輩の練習着を洗濯する。そして乾燥機にかけて先輩が起きるまでにきちんと畳んで用意しておかなければいけないんです。靴下は手洗いでした。これができていないと、屋上で何時間も正座をさせられた。真冬はまだ耐えられたけど、真夏の炎天下での正座は本当に地獄でしたよ」
練習も過酷だった。ある雨の日のこと──。他のチームメイトたちが室内練習場で練習している中、黒田だけ外を走るように命じられたことがあった。ずぶ濡れになりながら走り続ける黒田に、コーチはこう声をかけてきたという。
「黒田、骨までは濡れないから大丈夫だ」
こうした軍隊のような毎日に黒田は耐え続けた。
「セレクションで黒田のピッチングを見たあとに、上宮の監督をされていた山上(烈)さんに『何で控えだったんですか?』と尋ねたんです。すると山上さんは、『ハートが弱い』と。確かに大学に入学した当初の黒田は、立ち上がりが不安定だったり、突然制球が乱れたりと精神的に弱い部分がありました」(望月氏)
伊勢原体育寮で黒田と相部屋だったこともある萩原氏が証言する。
「お山の大将のような負けん気の強い性格がピッチャーに向いているって言われるけど、黒田さんは正反対。炎天下の中、一緒に走らされていても、『ホンマにしんどいな』って後輩の僕に向かって口にするくらいですからね。黒田さんとは3年間、一緒にプレーしたけど、劣等感や恐怖心を抱きながら野球を続けているという印象でしたよ」