望月氏は、黒田の眠っている才能を開花させるには自信を植え付けることが最も重要だと考えた。そのために、肩の故障が癒えた2年の秋から公式戦でもどんどん球を放らせたという。
「打たれても、フォアボールを出しても、我慢して使い続けました。もともと責任感が強いタイプでしたから、我々の期待に応えようと、くさらずに真摯に野球に打ち込んだ結果、徐々に頭角を現していった」
二十数年にわたり専修大学野球部の指揮を執った望月氏は、のちにプロ入りする選手を何人も見てきたが、その中でも「黒田は最も努力した選手」と断言する。さらに、望月氏はライバルの存在も黒田の発奮材料になったという。
「1学年上に小林幹英(プリンスホテルを経て98年、広島入団。現広島一軍投手コーチ)というピッチャーがいたんですが、負けたくないという気持ちがあったと思いますよ。当初は幹英が第1戦に登板し、2戦目は黒田というローテーションだったけど、3年の秋季リーグ戦では黒田を第1戦に先発させたこともあった。チームでナンバーワンの投手になったら、今度は東都リーグで一番になる‥‥というように、黒田は現状に満足することなく、常に向上心を持っていました」
そして、強豪チームに対する反骨心も強く持ち合わせていた。
広島がBクラスに低迷していた2000年代初頭にも黒田は、
「他球団になめられたくないという気持ちは常に持っています」
とテレビのインタビューに答えていたが、すでに大学時代からそうした感情をかいま見せていたのだ。
「黒田さんが3年生まで専修大学は東都2部リーグだった。僕たちがマスコミに取り上げられることはなかったし、試合が行われるのも神宮球場の隣にあった狭い第二球場。1部リーグの選手たちから見下されていると感じることもあった。黒田さんの日頃の言動からも1部昇格への思いは伝わってきました」(萩原氏)
黒田が3年時、専修大学は秋のリーグ戦で2部優勝し、入れ替え戦で日本大を破り悲願の1部昇格を果たす。特に黒田は、広島に同期入団する澤崎俊和や現ロッテの井口資仁ら、プロ注目のエリート選手たちを擁していた青山学院大学になみなみならぬ闘志を燃やしていたという。
萩原氏には忘れられない一戦がある。
「青学相手に黒田さんが先発、僕が7回からリリーフで登板して、結局、延長14回に僕が打たれて、チームは負けてしまったんです。寮に帰って応援に来てくれた両親に電話をかけていたら、黒田さんに軽くポンッて肩を叩かれた。黒田さんも悔しかったと思いますよ。でも、自身の悔しさを抑えて、味方を気遣う。黒田さんは、そんな人ですよ」
専修大学が1部に昇格した96年から、大学野球でもスピードガンによる球速表示が始まった。そこで、黒田は当時の大学生で初めて150キロを計測する。
「広島のスカウトが伊勢原のグラウンドに頻繁に足を運ぶようになったのはちょうどその頃。でも大学では2部リーグ時代が長く、知名度は低かったですから、他の球団からもプロ入りの意志を確認する連絡はあったが、獲得を熱望したのは広島だけでした」(望月氏)