長州が新日本において「現場監督」という立場で辣腕を振るい始めた90年、破格の待遇でデビューを飾って間もない元横綱・北尾光司とトラブルが起きた。
「北尾は練習嫌いで、言われてもやらなかった。長州さんはふだんから『お前、練習しろよ。ただじゃ済まねえぞ!』と叱りつけていたのですが、変わりませんでした」(興行関係者)
そして7月、青森での巡業の際、試合に出ないとゴネ始めた。さらには、長州が怒ってバスから降りるように促すと、平然と降り、
「うるせー、この朝鮮野郎!」
と罵ったのだ。
長州はその瞬間、教師に殴られた小学3年生に戻った錯覚に陥ったというが‥‥。
「『何でも聞いてください』と言う長州さんはその状況を普通に話しだし、丁寧に説明してくれました。例の発言を浴びた際については『僕は顔色を変えなかったですよ』と何度も口にしていた」(田崎氏)
話を青年期に戻そう。
理不尽な差別に耐えた少年時代だったが、中学以降は未来の片鱗を見せるかのようにケンカで名を上げ、敵なしだった。高校はレスリング部に勧誘され、特待生として授業料免除で入学。国体で優勝したが、国籍がネックとなり、直後のアメリカ遠征メンバーには選ばれなかった。監督は日本代表に選ばれることを想定して帰化を進言したが、長州の兄は首を横に振り、
「同胞が取り合ってくれんようになる」
と、こぼしたという。
そんな長州が五輪出場を果たしたのは、専修大学レスリング部時代である。
「血気盛んな当時はヤクザをボコボコにのして、倒れている相手に『俺を誰だと思ってるんだ。明治大学の柔道部だぞ!』と捨てゼリフを吐いたことがあるそうです。翌日、黒塗りの車が専大と同じ生田にある明大へ。『明治に向かって行ったぞ。アッハッハ』と笑っていました」(元新日本関係者)
豪快な長州といえども、国籍問題をクリアするために韓国代表で臨んだミュンヘン五輪は勝手が違った。同部屋の同胞と言葉も通じないという環境だ。
〈「ぼくは退屈しないように、アキバかどっかで音楽を聴くプレーヤーとヘッドフォンを買っていったんです。彼らにとっては滅茶苦茶珍しい。それをしょっちゅう借りにくるんです。貸すのはいいけど(中略)正直言えば、盗むことが多い」
“母国”韓国人にとって光雄は同胞であり、日本で育った妬みの対象でもあった(後略)〉
長州はこうした苦労を言い訳にすることはなかったが、五輪で思うような成績は残せなかった。それでも全日本、新日本という2大プロレス団体からスカウトを受け、新日入団を決意したのだった。