2回にダウンを喫し、3回には反則打を放ったとして2点の減点。前半から劣勢に立たされ挽回できないまま、大差の判定負け──。10月17日の、4階級制覇をかけたWBA世界S・フライ級王者・河野公平(34)との一戦は、まるで亀田興毅(28)の波乱のボクサー人生を象徴しているかのようだった。試合後、亀田は電撃的に引退を表明。13年11月、バンタム級王者としてのV8戦後に衰えを感じ、次の世界戦をラストマッチにすると、ひそかに決めていたという。
「亀田3兄弟」の長男として知られる亀田は03年12月に大阪の名門、グリーンツダジムから17歳でプロデビューした。初戦の報酬は破格の1000万円だった。17歳の少年は「今のボクサーは眠たいヤツばかり。俺は5階級制覇する」とほえてファンや現役トップ選手たちを刺激した。05年には東京の協栄ジムに移籍。その際の移籍金は3000万円だった。さらに、のちに協栄ジムも離れ、都内に3兄弟だけが練習するジムを設立して独立した。試合前には相手を徹底的に挑発し、そのつどメディアに大きく取り上げられた。
「ホンマは何も言わなくてもいいんやで。でも盛り上げるためには必要やろ。プロなんやから注目されることは大事や。俺は悪者にされてもかまわないよ。試合で勝てばいいんだから」
亀田はそう真意を話していたものだ。
淡泊で希薄な親子関係が報じられる昨今、父親の史郎氏と3人の息子たちの緊密な関係は好意を持って報じられたものだった。世間の注目をボクシングに向けたという意味では貢献度は高かったと言える。
風向きが急に変わったのは、06年8月に亀田が初めて臨んだ世界戦(ファン・ランダエタとのWBA世界L・フライ級王座決定戦)からだ。初回にダウンを喫した亀田は中盤以降に盛り返し、微妙な判定勝ちで初戴冠を果たしたのだが、試合後には放送したTBSや試合を管理する日本ボクシングコミッションに抗議電話が殺到。「疑惑の判定」として叩かれた。関東圏で42.4%という驚異的な視聴率をはじき出したことも裏目に出たようだ。
07年10月、弟の大毅が当時の世界王者、内藤大助に挑んだ試合では両者が反則を犯して減点されたあげく、セコンドについた史郎氏と興毅も反則を指示したとして出場停止処分を受けてしまう。さらに史郎氏は10年にライセンスを剥奪され、事実上、表舞台から消えることになる。
その後、13年12月の大毅の世界戦を機に3兄弟は日本から事実上の追放処分を受けた。河野戦がシカゴで開催された裏には、こうした事情が絡んでいた。さらにJBC職員から「監禁、暴行された」と訴えられたこともあったが、のちに「そういう事実はなかった」として東京地裁で棄却されている。イメージの面で亀田が損をしてきたことは否めないが、よきにつけあしきにつけ、摩擦やトラブルが多かったことは事実だ。
ボクシングライター:原功