現役選手だった頃の原監督は、箱根駅伝とは無縁の競技生活を送っていたが、駅伝の名門・世羅高(広島)出身で、中京大時代には日本インカレ5000メートル3位などの実績を残している。大学卒業後は、中国電力に陸上部の1期生として入社。しかし、1年目に右足首を痛めるとそのケガを引きずり、わずか5年で部をクビになっている。27歳の時だった。
大きな挫折を味わい、陸上界を追われてからは、自分よりも年下の社員らとともに一から中国電力の営業マンとしてスタートを切った。陸上しか知らなかった男は肩身の狭い思いをし、
「あれほどストレスがたまったことはなかった」
たった2年間で体重が30キロ以上増えて90キロ台になり、かつてのスラリとしたランナー体型は見る影もなくなっていった。
一方で、しだいに営業のノウハウを身につけていくと持ち前の行動力を発揮し、業績は社内トップクラスに。00年には新会社の創立プロジェクトチームに抜擢されるなど、「伝説の営業マン」となっていく。
その安定した仕事をなげうってまで舞い戻った陸上界でも、逆境からのスタートとなった。今でこそ、青学大は強豪校としての風格が漂うチームになったが、09年の箱根駅伝に復活するまでは、33年間も予選会の壁を越えられずにいた。04年にそんなチームの指導者に就任したが、当時のチーム状況はというと、寮にパチンコ台を持ち込む者がいたり、深夜に無断外出する者もいたりと、まず競技者としての生活がなっていなかったという。「早ければ3年で箱根出場」ともくろんでいたものの、監督就任1年目の箱根予選会は16位、翌年は13位も、3年目は再び16位に沈んだ。チームが空中分解の危機に直面したこともあった。
だが、そこは元敏腕営業マン。目標管理を徹底し、青学らしさとは何かを考え、従来の体育会にはあまり見られないような明るさをチームの売りにして、強化に努めてきた。
09年の箱根駅伝に33年ぶりに出場を果たすと、そこからは「その時々のチーム事情や戦力に合わせて目標を設定しながら」、それらを着実にクリアし、とんとん拍子にチームは強豪校へと上り詰めていく。12年には出雲駅伝で初優勝。15年の箱根でも頂点を極めた。監督就任時に大学側に示した
「3~5年で箱根本戦出場。5~9年でシード権。10年で優勝争い」というビジョンどおりの道を突き進んできたのだ。