中江氏が言うように、投資ジャーナルでは「10倍融資」ということを喧伝して会員を集めた。例えば100万円の元手があれば、900万円を貸して1000万円を投資できるようにした。投資家はおもしろいように集まった。
おまけに、企業からは信用できる情報ももらった。今も忘れられないのが、青木建設である。
「スプーン曲げのユリ・ゲラーをあるパーティに呼んだんだ。そこへ青木建設の社長が現れた。社長は非常に喜び、お礼だと言って、南米で金を掘り当てた話を聞かせてくれたんだ。いやぁ、この時はとにかく(青木建設の株を)買ったね。結局、300円のものが1000円以上になって大儲けした。笑いが止まらなかったよ」
間違いないところに相場を張る中江氏は「兜町の風雲児」の名のごとく、生き馬の目を抜く兜町で際立った活躍を見せた。しかし、それがインサイダー取引であることは、誰が見ても明らかだった。
「当時の僕はね、目のつけどころが違う、と前途洋々たる気分だった。仕事が終わると銀座、赤坂、六本木に繰り出し、ホステスにチップを弾み、芸者遊びを繰り広げた」
中江氏が仕手戦を演じた銘柄は関東電化、富士通ファナック、青木建設などで、今や伝説となっている。
だが、好事魔多し──。中江氏の金融業は証券取引法に違反する行為(無免許営業)との疑いがかけられ、84年8月24日、投資ジャーナルと関連会社が警視庁に摘発された。栄耀栄華を極めたが、絶頂の期間はわずか6年余りと短かった。
「といっても、すぐに逮捕されたわけではない。長い海外逃亡がある。行き先は香港、マレーシアなど東南アジアとパリ。僕は弁護士を通じて、警視庁とも連絡を取っていた。するとね、ずっと海外にいてくれという反応だったんだ。当時、兜町で僕のような事件は珍しかった。警察も検事もどう対応していいのか、わからなかったみたいだよ。そのうち、かわいがってもらっていたテレビ朝日の三浦甲子二専務が亡くなったので、葬儀に出るため、帰国した。帰国後もすぐには逮捕されずに、刑事2人がついて、身を隠していたんだ」
当時、東京地検では五十嵐紀夫という特捜副部長が辣腕を振っていた。
「その五十嵐さんが『紅白4回の求刑で済ませてやるから、キミのところに金をもらいに来た政治家の名前を明かさないか』と持ちかけてきたんだ」
4年という「軽い求刑」と引き換えに、政界スキャンダルを暴露する、という取り引きである。