蹴りの指導で体を動かし、汗を流したあとの酒は格別なのだろう。野村氏はおいしそうにビールを飲み干している。
不意に01年の話になった。その年、清原容疑者の成績は打率2割9分8厘、29本塁打、121打点と、前年までの不調がウソのような活躍を見せた。シーズン終盤まで打点王争いに絡んだものの、悲願のタイトル奪取はならなかったのだが、清原容疑者はとんでもない自慢をしてきたという。
「『俺は無冠の帝王と呼ばれているから』とか偉そうに言うてきた時はホンマ驚いたわ。『先輩、無冠の帝王って意味わかっとるんですか? バカにされてるんですよ』と言うたら黙ったわ」
度重なる赤っ恥をかき続けてきた清原容疑者だが、同年オフには巨人から年俸4億5000万円(推定、以下同)の4年契約という破格の待遇を勝ち得た。実はその裏で画策していたのも96年にパ・リーグ史上初の参稼報酬調停に持ち込んだ“交渉人”野村氏だった。
「俺は『“1年だけでもいいから、引退後に監督をやらせてください”と契約更改で言え』とアドバイスしたんや。もともと監督になりたかったようやったし、この時はチャンスやった」
切望していた球界の盟主の座へ、またとない機会だったには違いない。それでも清原容疑者は、
「無理やろ」
と、弱気な言葉をつぶやいただけだったという。
「『無理なら無理で、金額が上がりますよ。言うたらどうですか』と言うたんや。無理なら別のモンがついてくるのが交渉の基本や。こん時の成績なら言えたはずなのに、ホンマ情けないわ」
清原容疑者が巨人と決裂するきっかけとなった04年オフの舞台裏についても野村氏は明かしてくれた。
「あん時、最初は球団から30%の減俸を切り出されてたんや。けど、この時も清原は『30%減ってどういうことやろか、野村』と聞いてきたんや。何年も選手やってたのに、こんなんもわからんのや」
日本プロフェッショナル野球協約には選手の年俸の減額制限が定められている。04年当時、年俸1億円を超える選手は前年比30%まで(現在は40%)の減額しか認められていなかった。選手の同意があれば、上回る減額も可能ではあるものの、選手側は自由契約で他球団への移籍を選ぶこともできる。つまり、当時の状況は事実上の戦力外通告と言っても過言ではなかったのだ。