その後、どこからか資金を調達した野村氏は無事、清原被告の滞在ホテルに“贈り物”をすることに成功する。だが、清原被告との面会はかなわぬまま、野村氏は06年10月31日に逮捕された。
「俺の保釈後、身を案じた清原被告が“探り”の電話を入れてきたりした。逆に俺も07年の春キャンプ、清原が泊まっていたホテルのフロントに電話して『おい、リングで待っとるぞ!』と、清原への伝言をお願いしたりしたわ」
それでも会うことはできないまま、今日まで10年以上もの時が流れた。今回の清原被告の保釈は、野村氏にとって運命の瞬間であるのかもしれない。
保釈前日に時を戻そう。野村氏は饒舌に語り続ける。
「テレビ局からひっきりなしに『高知から生出演してくれ』とかオファーが来とったんや。でも、せっかくやし、東京に直接行こうと決めたんや。清原が俺の部屋に札を投げ込んだ(野村氏は、お遍路の札が野村氏宅に投げ込まれていたのを清原被告の仕業だと証言している)からお遍路姿で行くか、それとも(騒動後にテレビで映った)最初のヘルメットでもかぶって乗り込んだろうか。どっちが清原が見つけやすいか(友人と)相談しながら来たんや」
拘置所で取り調べを受けていた清原被告は、野村氏のヘルメット姿など知る由もないだろうに‥‥。
「俺の計算やと、清原は小心者やから、前日(16日)には保釈の許可申請や身支度をし終わってると思う。そして、17日の早朝6時頃、マスコミがほとんどおらへん時間帯に車で出てくるはずや。そこを襲うんや」
満を持して迎えた保釈当日、野村氏は「清原被告をいかに襲撃するか」をホテルの部屋で夜通し寝ずに、友人に語り続けたという。
「あまりにも白熱するもんやから、隣室から苦情が来てフロントから怒られたんですわ」
疲労の色を隠せず、そう苦笑いを浮かべながら語る友人に対し、野村氏は「闘う時にしか着ない」赤ジャージを羽織り、気合い十分といった顔つきで警視庁をにらんでいたのだった。
しかし、清原被告はなかなか姿を見せず、業を煮やした野村氏は昼過ぎにははやばやと警視庁前を立ち去ることに。そして、夕方には帰路についた。対する清原被告は18時52分頃、保釈されたものの、即座に入院。3月25日時点で公の前に姿を現していない。
「病院に行ったら会えるんかな。まぁ、また公判が始まる頃になれば語れることも増えると思うわ。その時はまた高知に来るんやぞ」
清原和博を知りすぎた男・野村貴仁。この男が再び口を開く時こそ、球界が恐怖におののく時なのかもしれない。