再会を拒んでいた有森さん
メダルを狙う選手なら皆、自分との戦いだと思っていて、他の選手のことなんて考えていないと思います。それに、あの頃の私はギラギラとしていて、まさに絶頂期のようなものだったんです。頭には戦うことしかなかった。一生のうちで、あの時じゃないとダメだったんです。メダルを獲るなら今しかないという時期だった。やはり男性に比べ、女性の旬って短いものです。だからこそ、どうしてもバルセロナに行きたかった。
会見の最後、松野は陸連に対して、「私、オリンピックに出たら確実にメダルを獲れると本当に思っています。そのためにも一生懸命頑張って練習していますので、どうぞ選んでください」とアピールし、「強い人は強いと思いますので、強い人を選んでください」と訴えた。ところが翌日、ラストの発言だけがクローズアップされ、一部報道では「女の怨念」という見出しまで躍ったのである。その2日後、松野の落選が決まった。
あの会見で、世間から「過剰な女」ってイメージになってしまいましたが、少しの後悔もありません。
でも、オリンピック・イヤーになると、あの頃のことをふと思い出します。涙が枯れるほど泣いたことや、金メダルを獲っていれば人生が変わっただろうなという思いがよぎったり、落選した本当の理由は何だったんだろうとか‥‥。同時に、あの時から有森さんに対して「このヤロー!」って、憎しみが生まれてしまったんだなと思うんです。
あれから2人は、会話を交わすどころか目を合わせることもないまま月日が流れた。が、18年ぶりに熊本の地で再会する日が訪れたのである。2011年にTBS系列で放送されたドキュメンタリー番組「スポーツ人間交差点 光と影」の収録だった。
オファーは数年前から何度もいただいていました。別の番組から企画をいただき、打診を受けたことも一度や二度ではありませんでしたね。私はずっと以前から有森さんと目と目を合わせて会いたかった。あの選考騒動で、憎しみを覚えてしまったままでいたくなかったし、会わないといけないという思いでした。でも、有森さんが逃げていて、なかなか実現しなかったんです。
今年6月、テレビ未公開シーンを再編集した、ドキュメンタリー映画「劇場版ライバル伝説光と影」(東京テアトル)の初日舞台挨拶の席で、菊野浩樹総監督が松野側にまず打診し、
「松野さんから『以前からこうした企画はあったが、全て有森さん側が断ってきた』と聞いて、いかに口説くか苦心した」
と振り返っている。また、観客と一緒に鑑賞した有森も、「何回か対面の機会はあったのですが、簡単に向き合える過去でもないし、私のほうが避けていました」と、複雑な胸中を吐露した。
その席では、私からもお礼のメッセージを送りましたが、この企画で有森さんと会って2人で泣きながら話をしたことで、心の中にずっと残っていたものがスッとなくなりました。つらかったのは私だけではなかったんだなとつくづく実感しました。私自身、結婚し、出産し、母親となり、いろいろな経験をしたことで、人の痛みも少しはわかるようになっていたんだなと思いましたね。有森さんは岡山の実家に置いてある銀メダルを磨いて持って来てくれ、私と私の息子の首にかけてくれました。ズッシリとした重みが印象的でした。有森さんの「かけたかった」という言葉を聞き、熱いものが込み上げてきましたね。
現在、ダウン症の次男を抱えながら熊本市議として多忙な日々を送る松野と、公益財団法人「スペシャルオリンピックス日本」の理事長を務める有森。2人は福祉活動の充実を目指して連絡を取り合い、交流を深めている。
スペシャルオリンピックス日本は、94年に熊本市で発足しているんですよ。私自身も、特別支援教育や障害者雇用の充実を訴えているので情報交換をさせてもらっています。現役時代はかなわなかったけど、やっと一緒にマラソンを走れそうです。その日を楽しみに、毎日の15キロのランニングを続けていきます(笑)。