98年8月20日、真夏の甲子園で高校野球史に残る壮絶な死闘が演じられた。春の雪辱を誓って臨んだPL打線は何度も松坂を攻略したが、平成の怪物は再三立ち直って1人で250球を投げきったのだ。PLで2年生唯一のレギュラーだった切り込み隊長・田中一徳が、3時間37分のドラマを振り返る。
ド真ん中のはずが足に直撃
松坂さんと初めて対戦したのは98年のセンバツ大会準決勝でした。松坂さんの投げるボールは、生まれて初めて見る凄い球でした。事前に凄い投手だというのは聞かされていましたが、最初に打席に入った時は衝撃的でしたね。
ストレートかスライダー、どちらかにヤマを張っても打てなかった。エンドランのサインが出た打席があったんです。セットポジションから投げた松坂さんのボールを見て、僕は「ド真ん中のストレートだ!」と思いました。とりあえずバットに当てればいいって感覚で振りに行って、次の瞬間、ボールが視界から消えたんですよ。気がついたら足に当たっていました。
スライダーが鋭角に曲がって、空振りしたボールが直撃したんです。今でも忘れません。それまで、ボールが消えたなんて感覚を味わったことはなかったですから。いや、後に進むプロでもありません。それを高校生の投手がやったんですからショックでした。
PL学園はそのセンバツで、惜しくも2対3で横浜高校に敗れた。そして迎えた夏の甲子園大会。PL学園は「打倒松坂」「打倒横浜」を誓って、甲子園に帰って来たのである。
今年で94回目を迎える伝統の舞台だが、今も98年8月20日に行われた「横浜対PL学園」を名勝負にあげる声は多い。それは松坂大輔(31)=現レッドソックス=が「平成の怪物」として広く名を知らしめ、躍動した試合でもあったからだ。PLの1番打者・田中一徳(30)=元横浜ベイスターズ=は脳裏に焼き付いた“魔球”をイメージし、この再戦に備えて素振りを続けてきたという。
松坂さん、横浜高校は本当にいい目標でした。だからチーム内で周りの意識も変わっていたと思います。練習もただこなしていたのが、一振りでも多くというか、あの一戦を機に何かやらなければ勝てない、という意識になったと思います。当時の僕は2年生だったんで、先輩たちに直接は聞けませんでしたが、例えば4番の古畑(和彦)さんにしても、負けにつながったスローイングの練習を徹底してやっていました。
1つのミスが命取りだという思いが皆の脳裏に焼き付いていて、「打倒横浜」しか見ていないという練習になっていましたね。極端な話、大阪府大会の予選を勝ち上がる心配は考えていなかった。甲子園で横浜を倒すという以外は考えていませんでした。
試合前夜には、いったん学校に帰って、雨天練習場で打撃練習もしました。練習では、僕らの代のエースにマウンドとホームベースの真ん中くらいまで前に出て投げさせました。それでも、いざ試合になると、松坂さんのほうが速かったんです。