松坂さんは勝つ運命だった
横浜が次に対戦した明徳義塾との試合、決勝戦(京都成章戦)は見ていません。2年生だったので、あの壮絶な試合の翌日から新チームでの練習でしたから。
結果だけ、最後のほうだけ、チラッと見たのかなって程度でしたね。なんせ、悔しくて、悔しくて。試合後、笑っている3年生を見て、また無性に腹が立ったというか(笑)。上重さんは(自分の力を)出し切ったからだったと思いますが、笑っていたんですよ。3年生は明日から夏休みなんで、宿舎に帰ると、負けて悔しいけど海にでも行こうかって。自分はイラッと来ましたが(笑)。
3時間37分の死闘を制して準決勝に駒を進めた横浜は、前日に250球を1人で投げ抜いたために温存していた松坂を投入したあとに、「6対0」のビハインドを跳ね返して逆転勝ち。決勝戦は、松坂がノーヒットノーランで締めくくった。田中は2年生ながら同年、高校生選抜の日本代表チームに招集され、今度はその松坂とチームメイトになった。
松坂さんは宿舎の中でもサインを頼まれ、物凄い枚数の色紙に書いていました。「ジャパン」って我の強い人が集まるはずなんですよ。でも、あの年代は違いました。異例というか、何て言うのかな、優しい人が多かったんです。人間の大きさが違うんですね。PLの寮生活でも感じましたが、みんな仲がよかったし、「みんなで(ファン、マスコミから)松坂を守ろうよ」ってのがあったし。だから、プロに入って活躍する選手も多いんですかね。今も残っている選手は多いですし。
年が明け、壮絶な激突から約半年後。翌年のセンバツ大会でPLと横浜は、なんと3大会連続となる対戦となった。
奇跡ですよね。全国で4000校以上あるチームの中で、甲子園という舞台に立って、3大会連続で同じチームと対戦するというのはね。
でも、また横浜と試合がしたいとは思っていましたが、松坂さんがいないし、何か自分の中では違うんですね。まったく違うチームとやっているような‥‥。ユニホームの色も、何か濃くなったような気までしました(笑)。
3度目の正直か。PLはこの試合を6対5で制した。ところが田中には、雪辱したという思いが希薄だった。松坂という存在がいない横浜に勝っても、それは別物だったのである。
やはり松坂と対戦したあの激闘こそ、野球ファンのみならず広く記憶に残る名勝負だった。
あの試合は、「負けたくない」と思っていた自分たちと、「負けない」と思っていた松坂さんたちとの差が最後に出たんでしょう。松坂さんは勝つ運命にあったんだと思います。あそこでPLが勝ってはいけなかったんじゃないかな。「松坂世代」という言葉も、次の明徳義塾戦(準決勝)で6点差をひっくり返して勝ち、決勝戦の京都成章戦ではノーヒットノーランという偉業を達成して確立した。
勝っていい人、勝たなければならない人とは、その過程がどうあるべきかが問われるのだと思います。
打倒横浜、打倒松坂の思いでぶつかり、跳ね返された。松坂世代の人たちは松坂さんに追いつけ、追い越せの思いで成長し、今日があるわけです。だから、双璧やライバルという形で語られることはなく、1人の凄い投手が誕生した大会だったんだと思います。