騎手の夢はダービージョッキーになること。しかしそれが簡単ではないのは、天才をして12年を要したことでもわかるだろう。その夢を達成してくれたのが、98年のスペシャルウィークである。この時、武が気にしていたのは当日の天気だけ。雨で馬場が悪くならなければ‥‥と切に願っていたという。
当日、雨は降らなかったものの、前日の雨で芝は稍重。少し力のいる馬場状態だった。勝負のポイントとなったのは、手応えよく直線に入っての坂下。馬を外に出してくるだろうと見ていると、なんと前にいるエスパシオとダイワスペリアの間を割ってきたのだ。その抜け出す脚の速かったこと。隙間はわずか1頭分しかなく、入るタイミングがワンテンポ遅ければ危なかっただろう。事実、通り抜けた直後にはピタリと閉じていたのだから。
ゴール後、「あんなところを抜けてくるのだから、武は冷静だ」と思ったが、どうもそうではなかったようだ。ゴール後、ムチを使ってウイニングポーズをとろうとしたが、そのムチがない。直線で追い出した時に落としてしまったのだ。武といえども、冷静でいられないのがダービーというものなのだろう。
ダービー馬といえば、七冠馬に輝いたディープインパクトを外すわけにはいかない。中でも「神騎乗」だったのは、1冠目の05年・皐月賞。スタートでバランスを崩し落馬寸前に。3馬身ほど出遅れ、さらに3コーナーで安藤勝己のローゼンクロイツにぶつけられた。
「レース後、アンカツには渋い顔をしていました」(競馬関係者)
2つの大きな不利がありながら、しかも外々を回り、4コーナーでは前に迫っていく。そこからムチを連発すると、前団を置き去るようにかわしていった。坂を上がってからは、ほぼ独り舞台。ゴール手前では手綱を抑えるほどだった。ディープインパクトのベストレースはこれではないか。
武が不測の事態への秀でた対応力を見せたレースが、シャダイカグラで勝った89年の桜花賞。18番枠に入ったシャダイカグラはゲート内で立ち上がる格好を見せた。これは出遅れるかもしれないな‥‥。そう思っていたら案の定、1馬身ほど出遅れる。場内からは「ワーッ」という悲鳴のような声が上がった。
だが、武はそうなることを予測していたかのように、馬をすぐ内へと誘導。馬群を縫うようにして追い上げ、最後には先に抜け出していたホクトビーナスを頭差とらえたのである。
兜志郎(競馬ライター)