これはのちに「意図的に出遅れた名騎乗」と言われたりしたが、それは正しくない。関係者のこんな証言がある。
「武はスタートする直前まで、先行して内に切り込むことも考えていた。しかし、馬があまりに入れ込んでいるのを見て、まともなスタートは切れないだろうと断念。ゆっくりと出していくことにしたんです。その当時の阪神は現在とは違ってゲートから1ハロンほどのところに最初のコーナーがあり、普通に出していけば膨れることもありえた。それもわかったうえでの選択だったわけです」
勝利後、武は「スタンドからどよめきが上がったのはわかっていましたよ」と冷静に語っていたのだった。
牝馬での名騎乗といえば安田記念2連覇を果たした09年のウオッカだろう。
単勝1.8倍に推されたウオッカは、中団のインで折り合いをつけながら進む。3コーナーから持ったままで上がっていき、絶好の手応えで直線に入った。あとはスパートのタイミングを計り、抜け出すだけ。ところが前を他馬にふさがれ、行き場がない。隙間ができるのを待っていると、内からディープスカイが手応え十分に抜け出そうとしている。しかたなく、ゴチャつく前団を見ながら、少しずつ外に進路を取ることになる。ようやくチャンスが訪れたのは、ラスト1ハロン過ぎだった。
ここから天才は、曲芸師のような騎乗を披露する。前を行くサイトウィナーとスーパーホーネットの間を割って入り、一瞬にして抜け出す。最後には前を走るディープスカイをゴール前できっちりと差し切ってみせた。驚くべき瞬発力、そして驚くべき手綱さばき。
武豊は海外、地方でも多くのビッグレースを制している。
海外ではステイゴールドが現役ラストランを勝利で飾った01年暮れの香港ヴァーズ(GI)が印象的だ。デットーリ騎乗のエクラーレが残り1ハロンで5馬身差つけていたのを必死に急追。みごとにハナ差で差し切った。見ている誰もが無理だと思えたのを、驚くべき末脚で覆してみせたドラマチックな勝利。
その末脚を武は「まるで背中に羽が生えているようだった」と評したが、決して大げさではない。
「追い出してから右側に斜行し始めたステイゴールドを、すぐに左の手綱を締め直して立て直した腕はみごとだった」
と、競馬サークル関係者は声をそろえるのだ。恐らく、武が海外で勝利したGIの中で、最も思い出深いレースだろう。
兜志郎(競馬ライター)