昭和を代表する名刑事・平塚八兵衛。数々の有名事件を担当し、殺人事件だけでも120件以上を手がけた。粘り強い捜査・取り調べを表し「落としの八兵衛」と称されたが、週刊アサヒ芸能が報じた事件でも活躍していた──。
特に「平塚八兵衛」の名を高めたのは、戦後最大の誘拐事件「吉展ちゃん誘拐殺人事件」だ。
1963年3月31日、東京都台東区の公園で遊んでいた村越吉展ちゃん(4)が誘拐され、身代金を要求された。犯人は用意された50万円をまんまと奪い取る。元時計職人の小原保元死刑囚が疑われていたが、65年7月、平塚氏による3度目の取り調べでついに自供した。
この事件を報じたのは、65年7月18日号。遺体発見現場の様子、吉展ちゃん両親の談話、小原元死刑囚の生い立ちなどを取材している。だがスクープを飛ばしていくのは、翌号からである。7月25日号では、犯人の愛人と、その夫の居場所を突き止め直撃。
「小原のことも事件のことも、もう思い出したくない」
と言う愛人に食い下がり、告白を引き出した。夫のインタビューも詳細に掲載したのだ。続く8月1日号では「小原の愛人といわれて」と題した、実名の独占手記を公開。小原の愛人として過ごした日々が明かされた。
平塚氏の担当した事件の一つが、68年に発生した「三億円事件」だ。取材では、「真犯人」に迫っている。
69年5月15日号では、捜査線上にあがった警察がマークしていた「山本武」「喫茶店のボーイA」「元テレビタレント三国邦雄」そして「青酸カリで自殺した少年」などに肉薄した。ジャーナリストの本橋信宏氏は語る。
「あの頃は膨大な数の参考人があげられた。当時、私の父親がたった一度だけ東芝府中に行ったことがあるというだけで刑事が来たそうですから」
本橋氏は長年、三億円事件を取材しており、“自殺した少年”の母親にも接触。「息子は犯人ではない」というコメントを得た。
「平塚八兵衛の投入が少し遅かったように思えます。彼は単独犯説を唱えていた。警視庁は複数犯と見ていたようですからね」(前出・本橋氏)
実際、70年8月7日号では「三億円事件大詰めの容疑者たちを追う!」と題して、捜査本部が追う7人の素顔を取材した。
75年に三億円事件は公訴時効を迎える。捜査主任を務めた名刑事の退職は、その9カ月前のことだった。
退職後、平塚氏は吉展ちゃん事件の犯人・小原保元死刑囚の墓を訪れている。犯人が先祖代々の墓に入れてもらえず、その脇の小さな盛り土に葬られているのを知り、泣き崩れたというのは有名なエピソードである。
「私は今度生まれるときは真人間になって生まれてきます。どうか、平塚さんに伝えてください」
小原元死刑囚は、執行前にこう言い残したという。