週刊アサヒ芸能に“ヤクザ記事”が登場するのは、創刊1年半後の58年3月。以来、貴賤を一切問わない「取材・執筆姿勢」を一貫しているが、知られざるアウトローたちの生態に肉薄した記事を振り返る!
当時の世相でヤクザは、敗戦後に暴れ回る戦勝国の人間に対する「自警団」という認識が強かった。社会がヤクザを明確な排除対象と認識していない時代であった。初めて登場したヤクザ記事は「ギャングの発言」(58年4月13日号)。「東京Gメンとぐれん隊の激突」(同年7月6日号)、「親分を逃すな」(同年7月27日号)と続く。
59年になると、1月4日号では取り締まる警察側に密着したルポ「ヤクザを挙げろ!」。さらに同年11月29日号では「姉御と呼ばれて10年間」といった“ヤクザの実態ルポ”というジャンルを確立させていく。
そして60年代。すでに高度経済成長の恩恵を、庶民も受け取るようになる。脱戦後とは近代化の過程でもある。戦後混乱期の治安維持のために政治家や警察に利用されてきたヤクザに対して、本格的に取締りが強化されていく。
暴排の機運が強まる中、本誌はその“本質”に肉薄すべく、あえて「ヤクザ読み物」を強化する。
猪野健治氏による「東京市街戦争“新橋事件”と松田義一」(63年8月4日号)を皮切りに、飯干晃一氏のルポルタージュや、藤田五郎氏の「ドキュメント東京暗黒街」(69年11月27日号~)、安藤昇氏の「やくざと抗争」(71年9月9日号~)などの連載を次々と掲載した。読み応えのあるヤクザ・ドキュメントこそが、「アサヒ芸能」の評価を高めていった原動力だ。
日本最大のヤクザ組織といえば山口組である。60年代後半~70年代にかけて、山口組は勢力を拡大させていった。それに伴って各地では抗争が頻発、一般報道の中でも山口組の占める割合が増えていく。新聞が書かない事件の真相に迫ろうと、週刊アサヒ芸能はヤクザ・ドキュメントから、ヤクザ報道へ力を入れていく。
「アサ芸は資料として貴重な雑誌でした。取材で地雷を踏まないようにしっかりチェックしていましたよ」
懐かしそうにこう語るのは、ジャーナリストの大谷昭宏氏である。読売新聞入社後、大谷氏は大阪本社社会部記者として警察を担当。のちに、上司・黒田清氏の「新しい社会部記者集団」、通称「黒田軍団」の中核となる。
警察担当記者としてヤクザを取材するにあたって、「誰が誰と盃を交わした」とか「誰が破門になった」という情報はアサ芸にしか載っておらず、「周囲の多くの新聞記者が参考にしていた」(前出・大谷氏)という。
70年5月14日号から、飯干晃一氏による連載「山口組三代目」をスタートさせている。あらゆる媒体に先駆けて、田岡組長という、戦後ヤクザ社会の最新鋭にして頂点の存在に迫るドキュメントは大反響を呼んでいた。
さらに田岡組長の神戸の自宅での独占インタビューを成功させ、「田岡一雄自伝」をスタートさせる。のちに、ある全国紙記者が山口組に直撃すると、
「うちはアサヒ芸能のような一流誌にしか話さん」
と門前払いをすることもあるほどだった。