60年代後半は、多感な若者たちが時代変革を求め絶叫し、社会格差に憤った時代でもあった。ある者は政治、また別の者はミュージックや映画で自己表現した。世の中は混沌としたが、それが行き過ぎて、凶悪事件も頻発したのであった。
横須賀市の米軍基地から盗んだ拳銃で68~69年にかけて東京、京都、函館、名古屋で4人を射殺した犯人は当時19歳の少年・永山則夫であった。アサヒ芸能1970年7月2日号で、20歳になったばかりの彼と東京拘置所でインタビュー、
〈「いまは、1年前のオレとはちがうよ。当時は世の中をしらなかった。いまは社会の仕組みがわかったよ。社会主義にならない以上、犯罪はなくならないよ」〉
と永山則夫は語ったのだ。
最初、外界に対してカラを閉ざしていた永山だが、69年9月ごろから、自分との対話を手記という形で書きはじめた。
3月の公判で、3人目の被害者、函館のタクシー運転手の証拠書類が読み上げられたとき、被害者に3人の子供がいると聞いて永山はうなだれた。
「あれを聞いてオレは、グジャグジャになってしまったんだ。できれば手記を出版して、印税をみんな遺族にやりたい。……オレは貧乏で、高校へもいけず、結局、こんなことになってしまったのだが、あの子どもたち(遺族の)にはオレのような苦労をさせたくないんだ」
永山は北海道網走市に8人兄弟の7番目の子として生まれたが、父親は博打狂いで家庭は崩壊し、母親は青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。その後、東京に集団就職したが、なじめず職と住居を転々とした。その苦しいことばかりだった少年時代を思い出したらしい。
その後、永山は71年に手記『無知の涙』『人民を忘れたカナリアたち』を発表した。先の言葉どおり永山は、この印税を4人の被害者遺族へ支払った。それからも獄中で旺盛な執筆活動をみせ文壇で評価を得たが、97年、死刑に処された。
前述したインタビューの最後、
〈「浜の真砂は尽きるとも、世に資本主義のあるかぎり、犯罪は尽きまじだよ」〉
とシャレてみせた永山。
ある意味で、貧困が多感な少年を傷つけた末の事件だった。